×長編 | ナノ
猫は朝に弱い。というよりは、一日中眠気と戦っている。こくり、舟を漕ぎそうな頭を一発叩いても無駄、と言わんばかりにまた頭が落ちそうになる。私の授業中は、いつもこんなんだ。
ふわ。誰にも見られていないだろうと欠伸を一つ噛み締める。伸びをして、正門を通り抜けた私は目的の場所へ行こうと、足を進めた。携帯を取り出す。昨日受信したあの人からの初めてのメール。思わず保護指定してしまったその文章をまた覗き込んでは、笑った。そんな大した内容じゃないけど。
『明日ラーメン食い行くぞ』
あんまり食べないくせに。と、メールを読んだ時、初めは思った。もう随分と履き慣れたローファーを小刻みに慣らしながら町を歩く足を少し早めた。緑色のリボンが首元で揺れる。チェックのスカート。私が通う高校の制服は、やっぱり可愛いと思う。
私は妖怪じゃないから越境通学は許可されてる。けど、私は町内の高校に通うことにした。理由、は。
「毎度でーす」
宝々蘭の扉を開けるといつも通りそこにはおかみさんとおやっさんが忙しそうに働いていた。その手を一瞬止めた二人は笑顔を浮かべ「いらっしゃい」と私をいつも通り迎えてくれる。だからこの店は好きだ。
「よーう」
ラーメン屋に似つかわしくない存在だと思う。何か、こう、似合わない。生じる違和感を醸し出す区長とその秘書に片手を上げた私は、二人の座るテーブルの一席に腰を下ろした。
「メール、唐突過ぎです」 「へっ、いいじゃねえか。何か食いてえ気分だったしな」 「ラーメンあんま食べないくせに」
どちらかというとマリアベルさんの方がラーメン、よく食べてるイメージがある。頬杖を付きながら、水を運んできてくれたおかみさんに塩、とだけ注文した。分かってくれている。究極にあっさりの塩、麺堅めのネギ抜き。灰皿にはもう何十本と吸殻が積み重ねられていた。吸い過ぎです。とは言わなかったけど(神様だから身体に悪いとよく分かんないし)、どうも彼は不穏な空気を汲み取ったようだった。
「今更止められねーよ」 「別にやめろとは言ってません」 「じゃ、減らせねーよ」 「増やすことは出来るくせに」 「あんだと?」 「いーいーえー」
隣でマリアベルさんは子供みたいに言い返す雄飛さんを見て大人気ないです、なんて呟いていた。思わず笑ってしまう。
「で。別にラーメン食べるためだけに私を呼んだわけじゃないですよね」 「あ?」 「てっきり他に用事あるのかと思って身構えて来たんですけど」
言いながら、少し頭がぼうっとし始めたことに気付いた。あ、眠い。店内が暖かいからかな。ぬくぬくとした毛布に包まれた時みたいな何とも言いがたい幸せが身体を覆っている。と、不機嫌そうな手が私の頬を抓った。
「いひゃいれす」 「神様の前で寝るとはいー度胸だな。ああ?」 「らってほほ、あっふぁかいんれすもん」 「ほーう?」 「おいおい区長さんよ、女の子いじめんな」
どん、と目の前に中華番組とかで良く見るお椀が置かれた。透き通るような色のスープ、いつも美味しいと手が止まらなくなる麺、ネギなし。漸く雄飛さんの手から解放された私は箸を片手にいただきまーす!と元気な挨拶をした。
「誰がいじめてんだよ。逆だろ、逆」 「意味が分かりません」 「マリアベル、食いながら即座に俺の言うこと切り捨てんのやめろ」 「失礼致しました」 「食いながら謝られてもな」 「ほれより、ひゅーひはん」 「てめえは食うの止めてから話せ」
明らかにマリアベルさんとの対応の違いに正直言って、ちょっとショックを受ける。れんげで掬ったスープは熱すぎてまだ飲めそうもない。その代わり一生懸命息を吹きかけて冷ました麺を口に含んで咀嚼しながら、私は次の言葉を考えていた。
「……うん。何か話しあったんじゃないんですか?」 「いや?別にねえよ」 「なんだー。キンチョウして損した」 「お前さんはいつも気張り過ぎなんだよ」
言いながら、また煙草に火を点す。私がここへ来てから少なくとも五本は吸ってる。このペースだったらさぞかし煙草代が勿体ないななんて思いながら、私は雄飛さんの言葉を噛み締めるようにまた一口ラーメンを飲み込んだ。
「町に来てから三年」 「……もうすぐ四年ですけどね」 「二年前に来た鈴のほうがよっぽど皆に馴染み込んでんぜ」 「不器用なんですよ、私」 「三年は掛かりすぎだ、阿呆」 「それなりに上手くやってるつもりです」 「ったく、頑固モンが」
ジュ、と灰皿に押し付けられた煙草の末路を見つめながら、私はラーメンに一つも浮いていないネギについて考えていた。
私の体は、半分だけ妖怪の血が流れている。ことはちゃんと同じ半妖だ。だからといって言葉を操ったりすることは一切ない。私には特別な力なんてきっと何もない。ただ一日中眠気と戦って、日向が好きで、魚が好きで、ネギを食べると中毒を起こすようになって。
名前は猫みたいだねと、じゅりさんは笑った。
「……と、あんまし怒らすと爪立てっからこの辺で止めといてやるよ」 「立てません」 「へっ、どーだか」
一方的に話したいことだけ話して帰ろうとするその姿勢はまさに偉いだけの神様そのものだ。だから私は神頼みなんて絶対にしない。屈服するなんて、嫌だもん。帰るぞ、ってマリアベルさんに言いながら、立ち上がった雄飛さんはどこか満足げで、未だにスープを飲めずにいる私に向かって言い放った。
「俺は言ったはずだぜ。『後悔しねーように生きろ』ってな」 「……」 「してなかったら、んなシケた顔しねえと、俺は勝手に思う」 「……そんなこと」 「ねーって?じゃあ今日家に帰ったら自分の顔見てみろよ」
は、?お椀に宛がっていた手を止め、雄飛さんの方へゆっくり顔を上げる。ラーメン屋に来る予定があったためか、チャイナ服を纏うマリアベルさんよりも身長の低い雄飛さんはそれでも身長以上の存在感を発揮しているような気がした。
「三年前の顔と、何ら変わってねー」
邪魔したな。そう言って、宝々蘭を出て行った二人を見つめ、やがてテーブルの隅に紙幣が一枚置かれていることに気付く。ああ、支払いやっとけってね。相変わらず勝手なんだから。どうして、どうしてそんな立場の違う人を好きになってしまったんだろう。マイナスな感情をもやもや湧きあがらせながらすっかり温くなっていたスープを飲み干す。おやっさんが何か心配そうに私を見ては話しかけようとしてくれていたみたいだったけど、笑って何にもないよって誤魔化した。
三年前と何ら変わってねー。
私としては、変わったつもりだったんだけど。素直になれない。こればっかりは、元からの性格プラスアルファのため、直すのは難しいと思う。
(だって、中身はほとんど猫だもん……)
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