×長編 | ナノ


クロシンには記憶を司る海馬に利くんだよ、切り出した話題に「何いきなり」と暁くん。友人のミカの反応とのそっくりさに私は笑った。
今までの記憶を、今日のそれを、そしてこれからも忘れないために。クロシンを摂取しよう。

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十二月二十五日。特別扱い、と言うものに今までこだわったことはなかった。自分は他の人と同じで構わないし、それをされても気恥ずかしさが残るだけだ。現に今の私の顔にはまだ火照りが残っていて、当分それを消す術もない。発端は今日の午後。練習をする青道高校野球部を私は傍観者の一人として、フェンスの外側に佇んでいられればそれで構わなかったのに。それなのに彼女はOGです、とか、キャプテンの幼馴染なんです、だとか適当な理由を付けて暁くんのパートナーである御幸くんは監督に直接許可を請ったらしい。私がいた場所はフェンスの内側。それもブルペンに程近いベンチだった。不特定多数の人に見られては「あの人誰?」みたいな質問が交わされる中で私は本当に、ほんとーに恥ずかしさでいっぱいだった。覚悟はある程度してたけどまさかここまで待遇されるとは。挨拶した監督さんの貫禄さに負けてしまうほど、私は一般人なのに。そんなことを思ったのはつい数時間前の話だけど。

「まだ赤い」
「うん。だって恥ずかしかったもん」
「そんなに?」
「だって部外者なのに、あんな特等席に座れるなんて思わなかったもん」

それもそうだね、なんて他人事みたいな暁くんの返答にそうだよ、と投げやりな態度で返す。練習も適当に打ち切られたのは丁度七時を回った頃だった。練習終わり?と尋ねた私にそうだよなんて今日一番の優しい顔で答えてくれた暁くんと、今こうして高校の敷地から出て、肩を並べて歩いている。

「それにしても恥ずかしかったな」
「何が?」
「みんなの会話。『あの人誰っスか?』って聞いた一年生の子に御幸くん『フルヤのこれ』なんて言ってたじゃん」

言いながら、私は布に覆われた手の、小指だけを立てて彼に見せる。彼はそんな私の動作を見ながらああ、なんて一人納得したみたいに、その小指の立っていた私の手をとった。心臓よ、そろそろ彼の突発的な行動に慣れてくんないかな。無理だよ。素直な気持ちが、答えた。暁くんに手を取られながら、私達は歩道から違う世界へと足を踏み入れる。駅までの近道だと以前高校の時に教えてもらった、公園だった。敷地を突っ切れば通常より五分くらい早く到着できるだとかなんとかで私も実家に帰るときにはよく通っていた場所だった。都内の雑踏の中で、唯一の緑だとでも言える公園の中は昼間の騒がしさを忘れたかのように閑散としていて、幻想的だった。ついには私は自分でも意識しないうちにメロディを口ずさんでいた。シューベルトのアヴェマリア。優雅なその旋律はクリスマスというキリスト教のイベントにぴったりのような気がする。確かにその内容は、当てはまらないかもしれないけれど私はこの旋律がとても好きだった。数あるクラシックの中でも飛びぬけて、大好きだ。

「それ何?」
「え、曲名?『アヴェマリア』」
「名前さんってクラシック好きだよね」
「別にそんなに詳しいわけじゃないよ。ただ、」
「うん?」
「刷り込み、かな」
「刷り込み?」

よくよく思えば私は彼といるときにクラシックを好んで聞いていた。だからだろうか。クラシックに触れると、彼と一緒にいるような気持ちになれるんだ。それに静かで優雅で時に情熱的で。何よりも毅然としたその旋律はどこか彼の雰囲気と酷似していたから。

「好きなんだよなぁ」
「クラシックが?」
「うん」
「そう……」

公園の外に佇む家々に設置されたイルミネーションが少し離れたここからでも見える。その綺麗さに目を奪われた。どんな公共の綺麗なイルミネーションよりも、彼と一緒に見るそれには叶わないと、思う。

「本当ならさ」
「うん?」
「こういう日には、その。どこか出かけたりするのが普通なんでしょ?」
「暁くん」
「でも、ごめん。僕はこうして名前さんと一緒に居られるだけで、その」
「……」
「すごく、嬉しいって思ってる。から」
「……」
「ええと、だからその」
「暁くん」
「なに……?」
「私も、だよ」

言い逃げと捉えられたかな。それでもいいや、ブーツが砂を踏む音を鳴らしながら、私は公園の中に設置されている、滑り台が付属している小山まで走った。彼が驚いたように私の名前を呼んでいたけど、振り向かずにその山を一気に駆け上がる。息を弾ませて見た街のイルミネーション。その絶景に、私は胸を躍らせながら顔いっぱいに笑みを浮かべた。後を追ってきた暁くんの姿を暗がりの中でもしっかり認識出来たのは、恋のチカラ?とかそういう恥ずかしい考えに囚われながらも私は彼を真っ直ぐに見つめた。背の高い暁くんの、幼さ残る顔立ち。たまに不安にさせるそれも今はただ、ただ愛しい。再び口ずさんだアヴェマリア。どうか私に、勇気をください。

「暁くん」
「うん」
「東京に雪は降らないの」
「知ってる」
「だけど、見たいな」
「雪を?」
「そう、街を白く染める雪を」
「北海道は、もう積もってるって聞いた」
「そうなんだ!」
「うん」
「行きたいな」
「え?」
「いつか。二人でさ、雪の街を歩きたい」

いつも彼からだった手をつなぐって行動を、珍しく私からした。彼の手袋をしていない冷たくてでも男らしい手を握る。要らないやって外した手袋をポケットにしまいながら、私は徐々に感じ始める彼の熱に、笑みを零した。直接手に触れたのはいつぶりろう。こういうところでも私は手袋っていう、一つの隔たりを作っていたんだなぁなんて考える。その温度は、これから彼に会う時は手袋をしないでおこうという私の中での一つの決心へと結ばせることになった。驚きが隠せないっていう表情で私を見る暁くんの顔、やがて何か思案するようなそれに変わった。そして、言葉が空気に揺れる。

「……何年後になるか、分かんないよ」
「いいよ。それでも、見に行きたい」
「最低でもあと二年はあるよ」
「……私さ。私の方がどんどん年取っていくみたいで嫌だったんだ。ほら、二十代超えると急に衰えるって言うじゃん?それが、怖くてさ」
「……」
「私が二十代になっても暁くんは十代、三十代になったらまだ二十代。そういう『壁』が怖くて、私も。知らず知らずのうちに『壁』を作ってたんだと思う」
「名前さん」
「けどね。それでも、暁くんが私を。……好きでいてくれるなら」
「好きだよ」
「暁くん……」
「……ううん。愛、してる」
「うん」
「ずっと。そういう、『壁』みたいなのなんて気にしないから」
「……私も、……愛して、ます」
「うん」

握っていた手が、すっと引っ張られて、漸く羽織り始めた彼のコートの中へと私は吸い寄せられた。暖かい。手の何倍もある温もりが全身を包む。寒さを表す彼の白い吐息が私の耳に掛かってすごくくすぐったかった。対照的に私の吐く息は、すぐ彼の布製のコートに染みこんで消える。ゼロになった距離がとてつもなく、嬉しかった。

「だから、どうか。側にいてください。姿がなくても私の隣にはあなたがいるって、私の側にはあなたがいるってこの気持ちを」
「うん」
「ずっと、これからも持っていたいです。そして」
「……」
「いつか、雪の降る街に私を連れて行ってください」

彼の胸の中で小さく呻くように言った言葉は素直な自分の気持ち。恥ずかしさでオブラートに包んだみたいにそれはくぐもっていたけど、彼には伝わったみたいで、小さくうん、という返事が聞こえた。最近涙もろいなぁなんて柄にもなく瞳から流れる雫に彼は困ったように微笑んだ。滅多に笑わないくせに、ああもう、なんて優しい笑い方するんだろう。

愛しさとか、切なさとか、そういった類の恋愛に関する全部の感情が暁くんに向いている私はある意味重症なんだろう。けど、彼はそれを受け入れてくれた。こうして私の体を抱き締めて、暖めてくれている。それが何よりのクリスマスプレゼントだった。

「暁くん」
「ん?」
「メリークリスマス!」

再度口ずさんだアヴェマリア。寂しさなんて、もうどこにもないよ。





♪ave maria!jungfrau mild,

quotation:伊*坂幸*太郎著『陽*気なギャ*ングが地*球を動*かす』(*引き)
for:20081201~20081224end!