×長編 | ナノ


スー。呼吸器官いっぱいに吸い込んだ空気は張り詰めた冬の寒さそのものを私の体に与えた。寒いはずなのにどこか清々しい。相変わらず煩く鼓動を刻む心臓あたりを手袋の嵌った手で押さえる。成功を願って。ヘンデルの『メサイヤ』第二部の有名な音律を口ずさむ。ハーレルヤ。

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「これ。お弁当、です」
「え」

どっちに転ぶか決まる前に、私は拒絶されないようにと紙袋を差し出した。小さいお弁当と大きいお弁当。そのどちらもが彼のためのものだった。二つに分けたのは単純な理由。一人暮らしの家にそれほど大きなお弁当箱がなかったため。

「どれくらい作ればいいか分かんないから四人分くらいあるけど」
「……」
「少なかったらごめんね。多かったら、余して良いから」
「ううん。食べるよ」
「そっか。嬉しいな」
「それだけのために……?」
「あー、えーと。違うのです」
「え?」
「そのー……」

体育館の前のベンチに肩を並べて座った私を暁くんが不思議そうに見つめてくる。それだけで私は恥ずかしさに溺れてしまいそうだ。ちゃんと練習した台詞も、うまく出そうにない。『何か言いたいことある?』『私も言いたいこと、言うから』『辛い思いさせて、ごめんね』。彼の顔を見たらその練習も意味のないものになりそうだ。

「ゆっくりでいいよ」
「え?」
「ちゃんと、……聞いてる。イヤだって思うなら、名前さんの方見ないようにするから」

答えも待たずして彼は私から視線を外して、私の方へ向いていた身体を遠ざけようとした。けれどそれは私の中の無意識が止めようと働きかけたことで、止められた。手が、自然に彼の腕を掴んでいた。彼が私を見ようとしないなんて、嫌だ。ワガママと言われようが『素直になる』今日の私の目標の一つだった。

「名前さん?」
「暁くん、あのね」
「うん」
「言いたいこととか、気になることとかある?」
「……は?」
「その、私に対して!」
「何いきなり」
「良いから!」

練習したのとは大分違うような言い方になったけれど、彼には伝わっただろうか。こないだのこともまだごめんねって言えてない。私も不安になるんだよって、素直な気持ちの一つも伝えてない。あなたには言わなきゃいけないことが、たくさんあるんだ。だから、と気持ちをちょっとずつ落ち着かせて、深呼吸した。溜息だと取られないように静かに吐き出して、勇気を持って真っ直ぐ彼の顔を見る。

その表情には、切なさを帯びていた。

「名前さんは、」
「うん」
「僕に、……壁を作ってる気がする」
「……うん、」
「いつ、いつ別れても辛くないようにって、そう思ってない?」
「そんなことあるの、かなぁ」
「少なくとも僕にはそう思える。それで、それで付き合ってる意味って、あるのかなって」
「……」
「いっつも不安だった」
「……ご、」

出掛かった。
『ごめん』の三文字。思い直して必死に飲み込んだことで彼には気付かれなかったみたいだ。

『別に無理して大人ぶる必要もないと思うの』。ついこないだ先輩に言われてフレーズが蘇る。そうだ、私は私に素直になればいい。それが彼にとって重圧であるのなら、拒絶されるのも構わない。けど、伝えなきゃ分からないことだってあるんでしょう?それが彼を苦しめていたかもしれないんでしょう?それなら、と私は飲み込んだ『ごめん』の言葉の代わりに、口を開いた。

「不安になる」
「え?」
「私も、暁くんと同じ。年上だから、家に来るのも寂しさ紛らわせに付き合ってもらってるだけじゃないかとか、こんな年増の女よりもっと可愛い子が暁くんの学校にはいるんじゃないかとか、もうね。醜い感情持ちまくりなの」
「そんなの」
「それに加えて暁くんも忙しいでしょ?野球。たまにね、思うの。暁くんが、平凡な人だったら良いのに、って。そしたら毎日電話だって出来るし学校帰りに会うことが出来る。年末年始だって、本当は二人で過ごしたい。けど、無理じゃん?じゃあ仕方がないって諦めてたのかもしんない」
「……」
「だってそこでワガママとか一方的な感情とか。我慢しないと私さ、」
「名前さん」
「私、暁くんにすごい依存すると思う」

一気に零した今までの感情。自分でもどのくらい理解出来たか分からないし、一体何を話してるんだろうと思った。けれど決壊したダムみたいに次々に流れては落ちる言葉の数々をもう、自分の中に留めておくほどのスペースは今の私には持ち合わせていなかった。さあ、それでいて、どうなるんだろう。

「暁くん」
「ん、」
「これが私の壁をぶち壊した結果なのかも。……うざいとか、重いとか。言ってくれていいよ」

諦めにも近い言葉。傷付かないようにと自分を保護する精神はこんなところまで染み付いているのかと愕然とした。もう、こんな自分、本当嫌になる。

「しない」
「え?」
「帰らないし、側にいたい」
「そ、の。それは暁くん」
「うん」
「どういう、意味でしょう……」
「重いだなんて思ってないってこと。いいよ、依存して」
「でも、」
「出来る限り、だけど。その、受け止める」
「……」
「だから、僕にもっと」

「もっと、本心を見せてください。」
手袋を嵌めた手をあの買出しの日みたいに取られた。ぎゅうって、握り締められて、まるで身体を抱き寄せられたみたいな強さを感じる。暖かい。いつも彼は私にプラスの感情と、暖かさをくれる。涙は、あの日アパートまでの帰り道で零した意味とは間逆の理由で私の瞳を覆った。切なくて、甘くて。まるでココアみたいな暁くんの体温。暖かいな、なんて零した私の声に暁くんはありがとう、なんて柄にもないくらい素直で優しい声を私にくれた。

「善処、します」
「どういう意味?」
「前向きに検討しますって意味」
「それ知ってる。断わってるって言うヒユなんでしょ?」
「え。わー賢くなったね、暁くん」
「バカにしないでくんない……」
「善処します」
「すぐまたバカにする……」
「いいじゃんいいじゃん」
「名前さん。あのさ」

すっかりいつもみたいな軽い会話を交わす私達。お腹が空いたのか、彼は私が先程渡した紙袋の中に手を突っ込んだ。取り出した重ねられている二つのお弁当箱の大きさの差に私は思わず笑ってしまう。小さいほうを私に差し出す彼の手をやんわり断わって、それ全部暁くんの分だよ、と言うと彼は驚いたように目を見開いた。包みを開ける。彼は本当に寒さに強いらしい。晴れてはいるけれど、冬の気候真っ只中で御飯だなんて、すごいなぁ。

「二十五日」
「え、」
「空いてる?」
「今月の?」
「そう」

直結するイベントをすぐに浮かべてしまう私も大概だな。苦笑しながら予定がないことを告げると彼は大きなお弁当箱に入っている御飯から手を付け始めた。美味しそうなんて、嬉しさが湧くような言葉をその間にも私の耳は拾ってしまう。

「どうして?」
「ごめんね」
「え」
「練習なんだけど。……一日、見に来て欲しいんだ」
「……いいの?」

今日だって、許可を貰ってなくて多分怒られるだろうなぁなんて想像をしていたのに。更に二十五日、つまりクリスマスに練習を見に来ていいなんて、そんなの。他のチームメイトに一発でバレてしまうこと、してもいいのだろうか。そんな感情を読み取ったのか彼は卵焼きを口に含みながら、良いよ、と言った。

「美味しい」
「良かった。でも、本当にいいの?」
「良いってば」
「でも……」
「見に来て欲しいんだ。名前さんに」

練習を。暁くんの姿を。一緒にいるチームメイトを。『見に来て欲しい』っていう言葉にはたくさんの意味が込められているような気がした。十二月二十五日っていう特別な日に、他でもない私をこの青道高校に招待してくれること。それが、彼にとっての盛大な勇気を使った結果なんだろう。本当に、彼らしくもないと笑った。自分の彼女を他の人に見せたくないと言っていた彼。きっとそこには恥ずかしさも含まれていたんだろうな。それなのに、と隣で早くもお弁当の半分を平らげた彼を見つめる。私の視線に気付いたのか、首を傾けるようにしてこちらを見てきたその仕草も、表情も全部全部。

本当に好きなんだなぁ。だからこそ、自分の素直な気持ちを伝えて嫌われたくなかった。けどもう、そんなことしないよ。

「楽しみにしてるね、二十五日」
「うん」

神に誓って。
ハレルヤ。