×長編 | ナノ



『もういいや』
一度思い込んでしまったらもう取り戻せない。慣れていたはずの、寧ろ愛しいとまで思っていたはずの彼の無表情さが今は他の何よりも怖いと感じてしまった。

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耐性がないとか弱いとか以前に未成年です。そう断わった私に、嫌な顔を一つせずに先輩は景気よく運ばれてきたライムサワーを飲み干す。また来客があったのか、食事を運んでいた店員さんがいらっしゃいませー!と大声を入り口に向けて上げた。その声が予想よりも近いところでしたので一瞬驚いてしまった私を一つ年上の先輩はけらけらと愉快そうに笑う。そしてまた、中ジョッキに手を付ける。うーん。凄まじい飲みっぷり。相当イラついているんだろうか。少し前に自分の携帯に届いたメールの文面を思い返す。挨拶も理由もなしに突然のお誘い文句『飲みに行くわよ』。苦笑を零さざるを得なかった。

「先輩」
「はー、おいしー。店員さーん、次。ジントニック!」
「せーんぱい。せんぱーい」

同じ学科で、前期の試験前にノートの貸し借りを行ったことがきっかけで知り合ったカナ先輩は、よく私やミカを飲みや遊びに誘ってくれたりする大切な人だ。すばやく慣れた手つきで、透明色したサイダーみたいな飲み物を運んできた店員さんに景気よくお礼を言ったカナ先輩はまたしてもそれを一気に飲み干そうとする。お酒に強いのは分かるけど、ちょっと飛ばしすぎだよなぁなんて思いながら私は注文してから結構な時間の経つウーロン茶を二口ほど飲んだ。中ジョッキに入っているそれはまだ半分も消費されていない。枝豆を口に放って、それを丹念に噛み締めながら私は口を開いた。

「どうしたんですか?」

どうやら何かあったらしい。確かにいつも豪快に飲む人ではあったけれどここまで無計画に飲みまくる人ではないから、その変化は私からすれば一目瞭然だった。相談、とか今の私にしても上手い回答や助言なんて得られやしないかもしれないけど。先輩の役に立ちたい。そんな気持ちに嘘はなかった。漸く酔いが回ってきたのか若干目が虚ろになりながらも先輩が少しずつ、少しずつ心情を口に表し始めた。

「喧嘩した」
「へ」
「奴と」

またどこかですいませーん!という店員さんを呼ぶ声が上がった。元気よくそれに対応する店員さんの姿にすごいなぁという感情を素直に抱く。居酒屋でバイト。私には絶対向かない職業だ。それにしても、と私は漸く残量が半分になったウーロン茶にまた手の伸ばす。運ばれてきたチーズの包み揚げを自分の取り皿に一つ移しながら先輩の発言に脳を活用させた。『奴』っていうのはつまり、と授業中のみならずキャンパス内で先輩を見かけると高確率でその隣にいる茶色い髪の男の人の姿を思い出した。ああ、と声を無意識の内に上げる。

「彼氏さんですよね……?」
「そうなの」
「また、何で」

すぐ隣の席に座って笑い声を上げている人達の方から慣れないタバコの煙が漂ってきて少しだけ喉が痛い。騒がしい店内で少しでも声が聞きやすくなるようにと、私はまたウーロン茶で喉を潤した。先輩とは言うと、何か思い出していたのか少しイラついたようにジョッキの残りを飲み干し、よっしゃ次は熱燗いこーなんて呂律の回らない言葉を独り言のように呟いた。飲みすぎないでくださいよ。そんな私の言葉はきっと届いてはいないと思う。

「それがさ、あいつ自分の考え言わないの」
「え、どういうことですか?」

喧嘩、という時点で今の私が置かれている立場と酷似していたためかいつもは相手が好んで話し出すまで聞きださないようにしていた私自身の態度は今回ばかりは変化する。あの作家さんが言っていた「コミュニケーションというのは人の話を聞くことから始まるんだぞ」という言葉。今だけは忘れておこう。呼び出し小走りで寄ってきた店員さんに熱燗ひとつください!と元気よく注文したカナ先輩が、再び話し始めた。

「私の方が年下でしょ?あいつは二つ上で、いつも私のこと子供扱いするの。自分は大人、みたいな態度取って」
「……そうなんですか」
「例えば、」

そう言って、先輩は人差し指をまるで推理探偵が証拠を突き出す時のように天井の方へと立ち上げた。

「例えば私があいつに不満を持って、言うとするでしょ?こういう所がちょっと嫌だからこうしてほしいとか」
「はい」
「そうすると、私の意見に絶対反論してこないの。不満とか全部あいつはあいつの中だけに留めて素直な気持ちを私には言ってくれないのよ」
「……」
「私の言い分に対して一切反論なし。極めつけは『ごめん』。その言葉しかないし」
「……っ」
「言って欲しい言葉はそんなんじゃないのに」
「じゃあ、」
「名前?」

「言って欲しい言葉って、なんですか?」

驚いたように先輩は話していた口元を押さえて、沈黙してしまった。お待たせしました〜って呑気な声を掛けながら店員さんが先輩の前に熱燗をコトリ、置く。その音がこちらまで聞こえてしまうほど、二人の空間は沈黙に支配されてしまったようだった。喉が、鳴る。あまりにも。

あまりにも、今の私と酷似しているから。

答えが聞けるなら聞きたい。楽な道を選ぶことになるのかもしれない。やがて動作を止めていた先輩が熱燗を猪口に注ぎ始める。酔いはどうやら一瞬にして冷めてしまったようで、その手元には一切の震えも狂いもない。少し、申し訳ない気持ちになった。

「あんたも何かあった?」
「え?」
「思い詰めた顔してる」
「あ、すいません。先輩の話聞いてるのに、その、」
「うん」
「別のことも少し、考えてました」
「別にね、」

一度言葉を切って、先輩は猪口に静かに、ゆっくりと口付けた。今の今まで豪快にサワーを飲んでいた人と同一人物だとは思えない。それはさながら重要な儀式の時に飲み交わす杯みたいな、そんな風情すら持ち合わせていたので少しだけビックリした。猪口から口を離した先輩は瞳を伏せる。泣いているのかな、なんて思ったけれどやがて聞こえた言葉に震えは全く感じられなかった。

「大人しく受け入れて欲しいわけじゃないの」
「……」
「ただ、喧嘩してでも、お互いの言いたいこと言い合える、壁のない関係になりたいだけ」
「壁のない、関係?」
「今回の喧嘩だって一方的に私が怒っただけなんだもん。何でもないって顔してるあいつの表情を見たくなかった」
「……」
「今のあいつは私に、壁作ってる。多分、自分が傷付かないようにって」

自分のことを、指摘されているような気分だった。ズキリ。痛む心が、図星ですよって訴えてきている。壁のない関係。今の私と彼に、それが当てはまるだろうか。漸く飲み干したウーロン茶。空になったジョッキを店員さんに渡しながら同じものをオーダーした。隣で滑り込むように「たこわさ!」と言葉にした先輩の声にも器用に店員さんは愛想よく笑いながら、かしこまりましたってその場から去っていった。

不満に思う。
不安になる。

喚く。
泣く。

それを彼に伝える素直さ。
それを理由に喧嘩したくないという留まり。
いずれ消えるはずだから、伝えなくたって構わない。
私の一方的な感情で彼に不快な思いをさせたくない。

でも。

「先輩……」
「ん?」
「その、何も言わないことが。先輩にとっては苦痛でしたか」
「……苦痛っていうかさ」
「……」
「何のための私なんだろうって思う。側にいるはずなのにあいつの事が全然見えなくて、逆に距離を感じて」
「はい」
「そんなんで、付き合うって何だろう。……そう思ってるかもしれない」
「かもしれない?」
「名前の彼氏もね、って話」
「……」
「名前」
「はい」
「別に無理して大人ぶる必要もないと思うの」
「……は、い」

それが彼を苦しめていたかもしれない、だなんて。

にっこりと赤みを帯びた顔で笑った先輩に私も笑みを零した。上手く笑えてたかな、なんてもうこの際気にしなかった。無礼講無礼講!さ、名前も飲もう!と話題を明るく切り替えた先輩に再び未成年ですって、断りを入れる。さっきとは違ってえーなんてわざとっぽい不機嫌さを露わにした先輩に私は苦笑した。何だかんだ言って私から見ればカナ先輩だって充分大人だと思った。最初は彼女からの相談を受けていたはずなのにいつの間にか話題は擦りかえられていて。私の方が元気付けられたような気分。変なの。だけど。

「……ありがとうございました」
「ん?んー。あ、このホッケ美味い。名前も食べなって」
「はーい」

本当に微かでそれには膨大な勇気が必要だけど。
道が見えてきた気がします。