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「ありゃ。哲だー」

どこかで見たことのある顔!と丁度駅の入口付近で私は思いも寄らぬ人物との遭遇に声を上げた。隣を歩いていた暁くんと、瞬時につないでいた手を離してしまったことは後でちゃんと謝ろう。

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「名前……さん。お久し振りです」
「わー他人行儀!」

素っ気無いなぁなんて笑いながら私は今しがた遭遇した人物の元へと歩み寄る。結城哲也。簡単に言えば私の幼馴染みたいなものだ。家同士が近くて、同じ小学校、中学校、高校。別名、腐れ縁とも言う。そんな彼は部活中であるはずなのに制服姿で駅にいたものだから私の驚きも一層だった。事情を知ってるのか知らないのか少し後ろにいた暁くんは無言のままで、ああ、なんか不機嫌そうな、気もしなくもない。そんな暁くんの存在にも気付いた哲は、若干目を見開いて、でもやがて納得したかのように笑みを浮かべた。

「なるほど。そういうことか」
「へ?」
「昨晩一人で買出しに行くと言ったのは」
「……」
「え?うん?話がよく分からないんだけど」
「降谷」
「はい」
「あまり遅くならないうちに戻れよ」
「はい」

上手く状況把握が出来てないけど、どうやら二人の間でその話題は終わったようだった。それにしても、と私はちょっとした違和感に思い出したように笑う。不思議そうにこちらを見てきた哲の姿は去年に比べて遥かに貫禄が出てきたような気もする。

「やー、哲が何か」
「……なんですか」
「キャプテンっぽいなぁって」
「名前……」

漸くなくなった敬語、敬称に私はまた笑った。ああ、本当にこうやって話すのも久しぶりだという実感が湧いてくる。いっつも野球で忙しいし、実家から出て私は一人暮らしを始めたし。度重なった境遇の違いが、心地良い懐かしさを呼び起こしているのかと思うとこんなのも悪くないなって、そう思えてくるから不思議だ。感嘆の息を付くと同時に急に口数の減った暁くんのほうへ振り向く。と、

「……」

明らかに、何か言いたげな表情で私と、哲を交互に見ていたのでどうしたのかと尋ねようとした。けれど哲がそれじゃあ、と別れの言葉を最後にこの場を去ろうとしたので意識は自然とそちらのほうへと向けられた。部活行くの?と聞いてみる。すぐにやる気の混じった声でああ、という返答が返って来て、本当相変わらずだなぁと可笑しさが込み上げた。野球好きの腐れ縁がいたからこそ、私もここまで野球を好きになれたんだと思う。そう考えると目の前の彼には感謝しなくちゃな。暁くんと巡り合ったのもきっと、哲のお陰だから。

「哲」
「ん?」
「またねー」
「……ああ。それと降谷」
「、はい」
「少しなら俺がごまかしておくが皆にあまり心配かけないようにな」
「はい」
「じゃあ」

本当、貫禄出てきたなぁなんてその背中を見送る。その後ろにきっと伊佐敷くんとか増子くんとか、御幸君とか……暁くんも。付いていきたいって思える人物だからこそキャプテンなんてすごい場所に居られるんだと思う。すごい幼馴染だな。

青道高校のすぐ近くの停留所に止まるバス乗り場へと姿を消した哲をゆっくり見送った後、あ、と思い返す。目の前にいる人物が至極。それはもう、超が付くほどの不機嫌オーラを露わにしていたから、だった。というもののどうにもこうにも理由が思い浮かばない。とにかくこの急に静かになった二人の雰囲気を回復させようと私は話題を切り出した。

「て、哲とはさ、家同士が仲良いんだよね。近所で」

幼馴染というか腐れ縁みたいなものかな。聞かれてもいないくせに、矢継ぎ早に私は言葉を捲くし立てる。やがて先程とはかなり違った状況ではあるけれど、立ち止まっていた足を静かに踏み出した暁くんの後ろを付いていくために私も歩き始めた。違った状況その一。歩くペース。スピード。先程よりも大分、早い。彼の一歩は私のおよそニ歩半くらいだった。そのニ。会話が一方的。これはもう、一目瞭然。そして最後。その三。

手が、寂しい。

さっきまで一緒に笑っていたのに。爪のコーティングに使う透明のマニュキアを買うのが恥ずかしいからと私にぶっきらぼうに頼みごとをしてきた彼を笑った自分が随分昔の記憶のようだった。彼の持つ、マニュキアの入った袋が何か他のものとぶつかったのかプラステックの鳴る音が何も答えようとしない彼の代わり、と言わんばかりに返事を響かせた。雑踏の中でそれを聞き取れたのはきっと二人の間に会話がないから。

「せ、青道でも仲が良くて、私が大学に入ったときにアパートの引越しも手伝ってもらったりとか」
「……」
「本当、哲も野球大好きで彼のお陰で私も、……暁くん?」
「……そう」

急に立ち止まった彼の背中に思わずぶつかりそうになって私は自分の足に急ブレーキを掛ける。哲が野球大好きだったお陰で、私も野球を好きになれてそれで。だから暁くんに出会えたんだと思う。今更ながら恥ずかしい台詞だなと思いつつもそれを口にしようとしたときだったので出鼻をくじかれた気分だった。両手に私の荷物と自分の荷物を持つ彼の姿が、背中が、少し怖い。いつの間にかこんなに歩いてきたんだろう、辺りを見れば先程哲が乗ろうとしたバスの二番目の停留所付近まで街を闊歩していたことに気付いた。青道高校は四番目。つまり徒歩で駅から高校の半分を通過してしまったわけだ。そんな私達を横目に、一台のバスがヘッドライトを点しながら、ガードレールを挟んで私の隣を通り過ぎた。他に走っている車は、数えるほどしか存在しない。

暁くん、もう一度呼ぶ。彼が、振り向いた。

「知らないんだよ」
「え……?」

一定間隔で設置されている街頭の光が、私達二人の影を薄く写し取っていた。彼の影は私よりも確実に長くて、年下だなんて思えないほどだ。けれど、と逆光で見えづらい彼の顔を見つめる。ようやく順応を施した瞳がその姿形を写し取りやがて、ああ、っていう思わず零しそうになる溜息を私にもたらした。どこか幼さ残る彼の表情。私よりも三年分短く生きている何よりの証拠である学生服。証明するものが多すぎて、思わず目を細めた。彼の次の言葉を待つ間の沈黙は何にも捉え難い苦しさがある。生唾を飲み込む音が、スピーカーを通したみたいに体中に響き渡った。

「僕は、そんな名前さんを知らないから」
「え、?」
「だから、たまに。うん」
「……」
「不安に、なる。年下だし、いつも子供扱いするし。ただの」
「ただの?」
「……ごめん、今の余計だった」

直接尋ねてこない姿勢も。
自分の感情は回りくどく表現する彼が、珍しく素直に吐露している言葉も。
全部全部、一つずつゆっくり私の心に影を落としてはマイナスの感情を湧き上がらせてくる。彼からマイナスを貰ったのは初めてだろうか、いや、違う。これも。今回のことも、元はといえば知らない話題を振った私が悪いのだと、思う。
直接見れない暁くんの表情は今、どんなものだろうか。不安になる。何度もリピートされるその言葉が、心を痛めつける。不安になる。その言葉は何も彼にだけ当てはまることじゃない。ああ、私も。年上で、大人だと自負しているものの私だってまだまだ子供で、でもそんな私を軽蔑されたくなくて、暁くんの前では大人ぶってる。そうだ、私も。

私も、不安。

「……っ」

けれどその感情を私は露わにしてはいけないような気がして、すぐそこまで出掛かった言葉を飲み干した。きっと意地とかプライドとか、我慢とか頑固さだとか。他人から見たらバカらしい要因かもしれないそれが、弱気になりかけた私の心に鞭打った。立て直しなさい、と。ここで悪いのは勿論わたしだ。彼の気持ちも考えずにペラペラと自分の過去や哲のことについて喋った私は、これ以上暁くんを困らせちゃいけない。きっと私まで不安、なんて言っちゃったら彼だって対応に困ってしまうだろう。そんな感情が大きく上回って、ぐっと飲み込んだ言葉を別のものへと変化させた。一番初めに浮かんだ言葉は、『ごめん』。

「……」
「ごめん、なさい。暁くんの気持ちも考えないで」
「……はぁ」
「さと、るくん?」
「そういう言葉が聞きたかったわけじゃないんだけど」
「え?」
「もういいや」

その言葉は、どうやら適切ではなかったみたいだ。けれどそれ以上の言葉が私には見つからなかった。ごめん、ともう一度謝ると、すっごいうんざりしてますってオーラでもういいよって返された。怒ってる?尋ねた質問に彼は答えることなく、家送ってく、とだけ返してきた。

暗くなったせいで気分が向上する要因もあまりなく落ち込んでいく一方の私と彼との間に、アパートに到着して別れの挨拶を交わすまで一切の会話は存在しなくて。その代わりに、私は必死に彼に悟られないようにと、潤う目元をすっかり冷え切った手で押さえることで精一杯だった。

手は相変わらず、寂しいまま。呼応するみたいに心も、寂しい。確かにそう、訴えていた。