×長編 | ナノ
ココアを半分ほど飲んだ頃に御幸くんとは電話越しに別れの挨拶を交わした。電源ボタンを押して、一秒、二秒。キッチンに置いてある小さな椅子に腰掛けていた私は若干ぼうっとする頭の中で何か、表現しづらい抽象的な思考に囚われていた。そのときだ。再び携帯が突然鳴り出したことに私はまさか一日に二度も心臓が飛び出る思いをしなければいけないなんて、と先程と同じように携帯のサブディスプレイを覗き込む。
『着信:暁くん』
実は音だけでもう誰から掛かってきたなんて一目瞭然だったけれど説得力の欲しさと、滅多に鳴らない音だったそれをよく聞いていたかったという想いから、少しだけ着信として鳴り響く音を耳にしていた。
パッヘルベルの『カノン』。私の二番目に好きなクラシック。
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「珍しい……」
率直な感想が挨拶代わり、その言葉に電波を隔てた向こう側で若干空気が変わったような気がする。例えるなら、むっ、というか。うっ、というか。
『……そんなことない』 「え、そう?そうかなぁ」 『多分』
私の持つ携帯の機能として、相手から何回コールが来たかをカウントするものがある。その機能の一番新しい情報を一瞬だけ思い浮かべた。彼からの着信数。そう多くはないと判断する。すっかり温くなってしまったココアはそれでも私に安らぎを与えてくれようとしているのか最後の足掻き、とも見える薄い湯気を立ち上らせて、私の手をほんのりとだけ温めてくれていた。出来るだけ喉を通る音が相手にバレないように静かにそれをまた口に含む。やっぱり、甘くて苦い。
「どうしたの?」 『さっきも電話したけどつながんなかった』 「あ、ごめんごめん。友達とお話してたんだ」
その言い方から、多分御幸くんは暁くんのいないところで私に電話を掛けてきたんだろうな。そんなことを予想しながら、あえて名前は出さずに『友達』と濁したのには後ろめたい理由があるわけじゃない。第一御幸くんには彼女、そりゃあもう大事に大事にしているという噂の彼女がいるわけだし、名前を出さなかったのは敢えて固有名詞を言うことでもないだろうと判断したからだ。きっと彼は少しだけだとしても不快に思うかもしれないから。そういう不安要素は出来るだけ露呈しない方がいいに決まっている。
『そう』 「うん」 『あの、』 「ん?」 『……大学、って、いつまで?』 「え?」 『だから、授業……とか』
授業とか、ってその「とか」には一体何が含まれるんだろう。濁らせた彼の言葉に苦笑を暫し零しながら、私はキッチンから丸くて小さいテーブルがある部屋へと移動する。白いそのテーブルの上に乗っているカラフルな今年のカレンダーは去年の年末、その可愛さに一目惚れして購入したものだった。そういえばもう十二月だ。すっかり切り替えるのを忘れていたカレンダーは未だに十一月、と大きく枠組みされている文字が一番上になっていた。このカレンダーももう使い納めかあ、そう考えながらファイリングされた一番上の紙を捲った。現れる『十二月』の文字。まだ少量しか書き込まれていない文字の羅列を下へ下へと辿っていくと、授業終了の文字を発見した。
「えー……っと、二十二日だよ」 『そう、なんだ』 「どうして?」 『ううん。今度言う』 「え?あ、うん」 『……』 「あの、暁くん」 『何……?』 「暁くんさ、帰らないの?」 『どこに?』 「どこって、……北海道。年末年始とか」
何で? え、普通そういう質問、出るかな。つくづく彼は、どこか抜けている部分があるような気がする。そういえば大学の友達に彼の話をすると必ずといっていいほど言われる言葉があったな、と不意に思い出した。『天然』。しかも自覚がないから余計にタチが悪いとか何とか。そうかなぁなんてその時は何とも思わなかったけれどたまに考えてみるとなるほど、確かにそうかもしれない。
『帰らないかも』 「でも寮とかやってるの?さすがに年始の三が日は部活ないでしょう?」 『わかんない』 「せっかくなんだから帰ったほうが良いと思うけどな」 『そうなの……?』 「うん、ご両親も安心すると思うし」 『名前さんは、それでいいの……?』 「え、何で私?」
そりゃあ寂しいとか、年末年始は一人かもしれないななぁとか、色々思うことはあるけれど結局のところそれは私の単なる個人の感情であって。それを彼に押し付ける気持ちは毛頭にもないし、最終的な決定をするのは暁くんだ。私は。それに反論する意味を持ちえていないと、思う。けれど、どうなんだろう。モヤモヤとした感情が渦巻く。本心を言えば寂しいのかもしれない。
『……なんでもない』 「歯切れ悪いなぁ」 『名前さんさ、天然って言われるでしょ』 「え、嘘!」 『ま、いいや』 「いいの!?」 『明日、さ』
学校?単刀直入に尋ねてくる彼の話し方が好きだ。 何をいきなりと、自分でも思った。回りくどい言い方をしない彼の尋ね方とか言い回しとか、ストレートでぶっきらぼうと思われがちだから、きっと苦手な人もいるかもしれない。初めの内は私も何度か思うことがあった。寡黙で、滅多に笑ったり、激昂したりしないから何を考えてるかなんてなかなか分からない。けどそれは多分彼が不器用で、感情を表現するのが苦手だから。そう考えたとき、何となく私は幸せな気持ちになれた。
彼は彼なりに、感情を表現しようと模索しているんだ、って。
「明日はー、えーと今日何曜日だっけ?」 『火曜日』 「え?えと、日付変わったから……」 『もう水曜日だよ』 「そっか。えーっと、うん。明日は学校。でも三時くらいには終わるなあ」 『そう』 「どうしたの?ていうか、時間大丈夫?」
明日も早いんでしょ?そんな私の質問なんてお構いなし。まるでそういう態度が目の前に浮かぶように彼はそれよりも、と言葉を紡ぐ。本当、ゴーイングマイウェイ。そんなのも彼を好きな理由の一つだった。羨望?とかも少しあるかもしれない。
『明日、五時半。……駅前』 「え、いきなりだなぁ」 『都合悪い?』
都合、という言葉に予定を思い出そうと脳内を巡らせる。もう時間的に頭がぼうっとなって来そうな雰囲気ではあったけれど、自分でも驚くほどすぐに予定がないことを決定付けた。大丈夫だよ、そう返せば良かった、という安堵の声。あー。うん。
一つ一つの受け答えといい、言葉の選び方といい。盲目なのかもしれないけど、どうしてこんなに私のツボを抑えてくるんだろう。それほどまでに自分が誰かを好きになった、という経験があまりない私としては彼と接する度に新鮮な気持ちを味わうことが出来る。 言い表せないと言ってしまえば本当にキリがないくらい。彼は私に抽象的、でも決してマイナスなんかじゃない感情をくれるんだ。
けど。
『じゃあ、明日も朝練だから』 「あ、うん。おやすみなさいだねー」 『うん。……おやすみ』 「はーい」
耳から携帯のスピーカー部分を離して、すぐに終話ボタンを押す。私はあの、ツーツー、という電話の最後に鳴る音がどうにも苦手だった。通話画面から待ち受け画面に変わった携帯のディスプレイが自動で消灯するまで、暫しそれを見つめていた。モヤモヤとした感情がいつの間にか彼の言葉とか反応とかで消え去っていたのに漸くここで気付く。彼はいつだって私にプラスの感情を与えてくれる。
立ち上がって冷め切った残り少ないココアを飲んで、空っぽになったカップを流しに置く。ステンレスと陶器のぶつかる音が響いたキッチンで、私はすっかり暗くなった携帯をまだ握り締めていた。
プラス以上に重く圧し掛かってくるマイナスな感情、例えば年齢の差だとかさっきの年末年始の話題だとか、そういうものはいつも自分自身から派生しているんだ。
そんな自分に、嫌気が差した。
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