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第一章、最後の一節。「『報われない人』選手権に団体戦があったら、私たちはかなりの強豪だろうな」という言葉で締めくくられている文に目を通した時だった。シューベルトの『アヴェマリア』が流れる室内に異彩を放つ音が鳴り響く。小説のページを捲ろうとしていた手が止まり、必然的にそちらへと私の目は向けられた。ベッドの直ぐ近くに置いていた携帯。とあるバンドがつい最近にCDをリリースした新曲のメロディだった。

『着信:御幸一也』

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驚きの連続だった。まずこの時間に自分の携帯が鳴ることが珍しいと思っていたのに。その相手にもまさか驚かされるなんて、と優雅なミュージックを奏でているコンポの上に置いている時計に目をやる。午後十一時。練習が終わって少し経った頃だろうか、と思いを馳せているわけにもいかず、小説に栞を挟んだ私はいまだに鳴り続ける携帯に手を伸ばし、通話ボタンを押した。耳に宛てるまでに、一瞬の緊張が全身を走る。

『あ、もしもし?名前さん?』
「これは私の携帯です」
『どうも』
「ご丁寧にどうも!久しぶりだねー」

スピーカー越しに伝わる振動、久しぶりの声に私は自分の口元が緩んでいることに気付いた。後輩である御幸一也とはかの有名な、というか、雑誌にも取り上げられるほど注目されている青道の野球部の子だ。と、彼がいかにすごいという説明をしたところで私の中では単なる一人の後輩であり、よき友人で。……彼と私を引き合わせてくれた恩人でもある。

「どうしたのーこんな時間に、というかいきなり」
『や、声が聞きたくなりまして』
「ヤローテメー彼女に言ってやれよそういうことー」
『言ってます言ってます』

括弧笑い、とでも付きそうな語尾の口調に私は溜息を吐いた。暁くんは彼みたいなタイプじゃないから、こういう耐性が私にはないと言えばない。溜息は、その違いを感じ取ったことと、意表を突く彼の発言にちょっと照れそうになったことを隠すためでもあった。

『まあ冗談なんスけど』
「分かってるってそんなこと」
『うげーなんか傷付く』
「で?」
『で?』
「切っていい?」
『わー久しぶりに話す後輩に掛ける言葉とは思えねー』

不意に私は、愕然とすることに気付く。どうにもこうにも困ったことだ。

「……」
『名前さん?どうしたんスか?』
「んー……」

私は言葉が出ないことを誤魔化すようにコンポから流れていたアヴェマリアのメロディを口ずさむ。

私は、彼といるときにこういう『私』を出しきれずにいる。

『そういや』
「ん?」
『降谷なんですけど』
「え、暁くん?何かあったの、怪我とか?」
『違いますって。この心配性め』
「しんぱっ、だって、いきなり暁くんの話題出すから」
『や、今日珍しいことがあって』
「へぇ?」

長い話なるかと思い、私は立ち上がる。暁くんと話すときにいつもすることだった。キッチンへと足を向け、流しの直ぐ下に収納してあった小さなステンレスの鍋を取り出す。冷蔵庫から出した牛乳をカップ一杯分入れてガスを付け、沸騰するまで私はそれを見つめている。途中で回し忘れていた換気扇のスイッチを入れたところで御幸くんが何かの音に気付いたように忙しいんですか?と尋ねてきたけれど、大丈夫と返した。

『あいつが一人で明日買出しに行くらしいですよ』
「えー道迷いそう」
『……とことん子供扱いっスねえ』
「だって北海道から来てるし、」

沸騰した牛乳にヴァンホーテンのココアパウダーを小さじで二杯入れて、かき混ぜる。再び沸騰したそれを少し細かい茶漉しで漉しながらカップに注いで、猫舌の私はそれが少し冷めるまで待っていた。と、窓の外で空気が室内の熱気で水滴と化していたことに気付く。

北海道はもう、雪が降ったのだろうか。

『あいつ、名前さんと付き合ってから大分変わりました』
「え、なんて言った今」
『だーかーらー』

変わりました。二回言われたって全然納得も思い当たることもなくてそんな自分自身にちょっと愕然としてしまう。変わった?私と付き合ってから、暁くんが?

「どういう風に?」
『何となくっス』
「あ、そう……」

何となくでここまで心乱されるのもどうなんだか、と電話を持ちながら漸く冷め始めたココアにホイップクリームを少しだけ入れて、口を付けた。甘くて時々苦いそれが、どうしてだろう。

恋とは、こういう味なんじゃないかと思わせるくらい、切なかった。