×長編 | ナノ
昼前に少しの時間だけ降り続いていた雨は私が大学の敷地から一歩踏み出た頃にはもう上がっていた。持ち合わせていた折り畳みの傘をしまう動作を友人と共にする。バスが定時通りの出発を待ちわびるかのように停留所に佇んでいた。市内のバスであればどこでも使用できるカードを専属の機械に通す。ピッという音が私と友人の分、二回鳴った時に見渡した車内にはほとんど人がいなかった。
車内の窓から見渡せた空が晴れ始めている。 駅まで歩く気には、なれなかった。
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「クロシン」 「え、何いきなり。頭おかしくなった?」 「えーいきなりそれはない」 「だって変なこと言い出すから」
駅前にある私が気に入っているカフェの二人掛けの席で、私と友人であるミカはそれぞれ注文したランチを味わっていた。ミカはお気に入りだというクリームソースのスパゲティ。それにセットのサラダと食後にアメリカンコーヒー。慣れた手つきでスパゲティをフォークに巻いていくミカの動作を見ながら、私はシーフードパエリアをスプーンで一口分だけ、掬った。
「パエリアにはサフランっていう着色料が入ってて、」 「え、?うん」 「サフランの中に含まれるクロシンていうのは記憶力に良いらしいよ」 「それどこ情報?」 「私の好きな作家さん情報」 「へー」
以前読んだお気に入りの作家の小説の一節に書かれていた文章を思い起こす。「コミュニケーションというのは人の話を聞くことから始まるんだぞ」と話していたあの小説に出てくる四人の主人公達が好きだったな、などと考え込んでいたら予想外にパエリアが熱くて差し出していた口をスプーンから離してしまった。ミカの笑う声がする。
「で、さ。学校で言ってたやつ。あれなんなの?」 「あー」 「例の年下彼氏?」 「やめてよ。なんかそういう言い方、曰くつきっぽい」 「ごめんごめん」 「んー、まあ。そうなんだけど」 「曰くつきじゃん」 「別に込み入った事情はないもん」 「でも顔は否定できてない」
嘘。と声に出していたようだ。またミカが小さく笑う。サービスとして提供されたウォーターグラスに注がれていた水に口付けながら、彼女はゆっくりとした動作でスパゲティを咀嚼していた。飲み込み終わるのを待つかのように私は口を閉ざす。
「なんか、腑に落ちないって顔してるもん」
パエリアに入っているサフランのクロシンが利いたのかは分からない。ずっと前の記憶がその瞬間に蘇る。腑に落ちない顔、と言われたことが前にもあったっけ。……確か、青道を卒業して半年経った頃に偶然にも再会した二つ下の後輩に言われた言葉だ。彼が一年生の時にあった切りだったからすごく驚いて、でも嬉しくて話をした時。そうだ。そしてあの時が、確か、彼との出会いだった。
「それにしてもさあ」 「うん、?」 「若いのと付き合うって、なかなか出来ないのに名前もすごいよねぇ」 「え、そんなもん?」 「そんなもん」 「そうかなあ」 「だって三つ下でしょ?あー私には無理だ」 「結構、……大丈夫だと思うけど」 「あ、また腑に落ちない顔」 「……そんなに分かりやすい?」
分かりやすい分かりやすい。キレイに食べ終わった横長の皿を小脇に置くと、ミカが何を今更、と言った様子で答えた。
「その子、野球部だっけ?」 「そうだよ。私の卒業した高校に今年入って来た子」 「どうやって知り合ったの?」 「え?うーん……三ヶ月前くらいに偶然会った後輩と一緒に買出ししてたとき」 「ちょ、待った!」
彼女の言葉とカフェの従業員が食後のコーヒーをテーブルに置いていたのは同時だったため、何か不手際があったのかと一瞬動作を止めてしまった。けれどその言葉は一連の会話の流れから派生したものだったのかと勝手に判断すると、再び忙しく手を動かし始める。五分の一ほどパエリアが残っていたが、私の方にも食後の飲み物が置かれた。ありがとうございます、と一礼すると、従業員のお姉さんは微笑みを浮かべた後にごゆっくりどうぞ、というマニュアル的な言葉を口にし、去って行った。その動きを見つめていた私は、再びミカのほうへ視線を戻す。信じられない、と言った顔の彼女がこちらを見ていた。
「飲まないと冷めるよ?」
言いながら、私は同時に運ばれてきた丸い白砂糖を一つ小さなトングでアールグレイの香るカップへと投入する。白い砂糖はまるで野球ボールのようだとも思ったけれど一瞬で否定した。あまりにも歪すぎる。
もし似ているとすれば、私と彼の。 二人の関係だろう。
「三ヶ月前に初めて会った?」 「うん」 「アンタ達付き合って何ヶ月?」 「……三ヶ月くらいかなぁ」 「……若い子は手が早いのね」 「別に関係ないと思うよ、それ」
ティースプーンでかき混ぜたことで余計に香るアールグレイが、鼻をくすぐる。くすぐったかったのは鼻だけじゃなくて、心もだった。
「よくある話だと思うし」 「少なくとも私の周りにはいない」 「そう?珍しいかもしんないけど。会ったその日に告白されるなんて」 「……マジ?」 「マジ」 「へぇええ」
なんだその感嘆の仕方は。 今度は私の方が笑いそうになった。そして湯気立つカップを右手で持ち上げながら、未だ何かに驚いては放心しているミカに飲まないと冷めるよ?と二度目の通告を行った。
『コミュニケーションというのは人の話を聞くことから始まるんだぞ』 私は、彼とそれが出来ているのだろうか。何となく居心地が悪い考えだと思ったので、すぐに頭の中から追い出す。今は味覚に直接刺激を与えてくる紅茶を嗜むことと、そして。帰ったらあの小説をもう一度読み返し始めようという思いつきだけで充分だった。
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