×長編 | ナノ
平凡な人だったら良いのに。 と、思うことがある。
目覚まし代わりにセットしていたオーディオのスイッチを操作する。その間も敷居一つ向こうのキッチンでは慌しそうなやかんの音が鳴っていた。テレビを挟んで設置されている二つのスピーカーからは、眠気が襲ってくるこの音楽を朝に聞くのは可笑しい、と彼が以前に評価していたモーリス・ラヴェルが流れ始める。一度すぐ近くのベッドで寝ている彼の姿を確認するために顔をそちらへと向けた。笑いが、零れてしまいそうなほどそれは穏やかだ。
「あっ」
その間にもけたたましく存在を誇張するように、やかんは喚いている。冬物のスリッパを履いた足が反射的にキッチンへ向かう。と、同時に思った。こんなに煩いのによく寝ていられるものだ、と。
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「今日は学校行ったら練習?」 「そう……」 「寮って外出届けも大変なんだね」 「何で?」 「何でって、一ヶ月に一度許可出たらいいほうなんでしょ?」
バターをたっぷり塗ったフランスパンを頬張る。かりっとした威勢の良い音と一緒に舌全体に広がる味に私は顔を綻ばせそうになったけれど、我慢した。そんな表情は、今の会話に相応しくない。
「私、今日講義昼までだから。夕方から部活見に行っていい?」 「別に聞かなくても」 「じゃ、いいんだぁ」 「だめ」 「えー」 「だめ」
二回言わなくても分かるよ。声をわざと荒げて、返す。不機嫌なのか無愛想なのかただ単に眠たいだけなのか。視線を一点に集中させたまま、暁くんはベーコンエッグに手を付けた。
「ねえ、」 「うん」 「何で私は部活見に行っちゃだめなの?」 「試合はいいよ」 「それじゃあ意味ないと思う」 「何で?」 「何でって、うーん……近くで頑張ってる姿見たいから、とか?」 「……」 「あ、照れた?」 「てれてない」 「うっそだー」
さっきとは裏腹に今度は声を上げて笑った。対照的に、暁くんはどんどん表情が良くないほうへいってる気がするけど、敢えて気にしないことにした。こうして彼が不機嫌になることも、もう付き合ってそろそろ三ヶ月もすれば、慣れていくだろうと勝手に思い込んでいる。諦めじゃない。言ってしまえば受け入れだ。
なんて、私は大人の振りをしている。
「とにかく、だめ」 「じゃあ、次はいつ会える?」 「……」 「明日?明後日?練習見に行くの許してくれたらこんなに私も煩く言わないんだけどなぁ」 「……」 「ねぇ暁くん」 「何」 「冗談だけど冗談じゃないんだよ」 「……わ、」 「わ?」 「分からん」
何それ、と噴出しかけた紅茶をぐっと耐えて飲み込む。代わりに暁くんに出していた水のコップを勝手に手に取り、それを一気に流し込む。何を言われたって今なら構わない。
「それ僕のなんだけど」 「似つかわしくない口調で分からん!とか言った暁くんが悪い」 「?」 「……っく、あはは、だってなんかカミナリオヤジみたいな言い方だったし!『分からん!けしからん!』みたいな」 「……もう忘れていいや」 「え、ごめんこのネタであと半年くらい笑える自信あるんだけど」 「学校行く」
いつの間にか私の用意した朝食をペロリと平らげていた彼が学校の制服の上着を持って、立ち上がった。慌てて私は残っていたフランスパンの欠片を口に頬張る。待って、と言う制止がまっふぇ、なんて、間抜けな言葉になってしまったけどどうやら彼には伝わったようだ。
「名前さん、まだ学校の時間じゃないんでしょ。ゆっくりしてたら……?」 「ううん、青道の近くまで行く!」 「無理しなくて良いよ」 「無理じゃないもん」
さっき彼がしたみたいに椅子に掛けていたピーコートを手に持つ。制服と私服。こんな些細なところにも私と彼の差が滲み出ているのだと思うと、どうにもやるせない気分でいっぱいだった。
「……日曜日」 「うん?」 「日曜日、試合。来週の」 「あ、もしかして先発?」 「うん」 「そうなんだー応援行く!」 「うん」 「でも本当にさあ」
流しっ放しにしていたモーリス・ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』を丁度アッセ・ランが始まるところでコンポの電源を落とす。手に掛けていたピーコートを羽織、マフラーを巻く。講義のテキストが入ったクリアファイルを片手に、私は玄関先でキャメルカラーのフリンジブーツを履いた。隣で彼がとても動きやすそうなスニーカーの紐を結んでいる様を見つめながら、不意に思う。
(彼がこの部屋に来るのは今日が最後かもしれない。)
いつも思うことだった。別れるとか失恋だとか、浮気だとか、そんな要素は存在していない。一方的な私からの視界では、の話だけど。けれど寮生活をしていて、毎日のように野球の練習に明け暮れて、一ヶ月に一度会えたらマシな方の男と、そう長く続くものだろうか。男性経験の少ない私には推測なんてものは出来やしないけれど、そう思っておいたほうが、いつか身の為になる。
傷付かなくて済むのなら、最初から想定しておけばいい。
「名前さん?」 「んー、なんかなぁ」 「え?」 「さん付けもなんか妙だなぁって」 「そう?」 「だって他の後輩と同じじゃん」 「そうだね……」 「考慮しといて」 「……」
いつもと同じような会話を繰り広げて私達は一度短いキスを交わした後、私が玄関の扉を開ける。一度鍵を取り忘れたことに気付いて、直ぐに下駄箱の上においてある、猫のキーホルダーが付いている家の鍵を手にした。二つある玄関の鍵の上から順に鍵を通し、まわす。慣れた様を見届けた暁くんがふいに口を開いたのと、私が鞄に鍵をしまったのはほぼ同時だった。
「試合だけなのは」「うん?」 「他の人に見られたくないから」 「……紹介するほどそんなに可愛くないもんね私」 「そういう意味じゃない」 「じゃあどういう意味」 「取られるのがイヤだから」 「……」
最初から想定しておけばいいのに。彼は時々、想定の外にあるものを私に与えてくれる。
「朝から甘い台詞ありがとう。さっさと歩かないと遅刻するよ」 「……その態度は可愛くない」
アパートの階段を降りる。同じ大学の先輩はどうやらまだ寝ているようだ。中型のバイク―目に留まるほどの赤色のバイク―が止められている駐輪場の側を通り、歩道に出ると、朝一番とは思えないほど車が走っていた。冬とは思えない暖かい陽気に空を見上げると、光が乱反射しているようで私は目を細める。視界から暁くんが、当たり前だけど消えた。
「……想定、かあ」 「何か言った?」
姿は見えないけど、声はする。そのことで私が安心していることを彼は知っているだろうか。多分、知らないだろうな。
「何でもないよー」
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