×長編 | ナノ
逃げるな、と言われた。 望みはあるかもしれない、と背中を押してくれた。 わたしに背を向けた一樹君の背中が少し寂しそうに思えてくる。 ごめんね、しか言えない自分が嫌だった。
恥ずかしいとか、 これ以上傷付きたくない、とか。
マイナスなことばかり考えていて、別れを切り出された時もこれ以上嫌われたくないって、そればっかりで。 結局わたしは自分の気持ちをちゃんと伝えてなどいなかったんだ。
『御幸一也も御幸一也だよ、素直じゃねぇの』
ねぇ御幸。 わたしが素直に気持ちを伝えていたら、
「……御幸!」
教室にはいなかった彼の姿を探した。 グラウンドまでの道を、息が苦しくなっても、足を止めるとはしなかった。
御幸、御幸、と何度も呼ぶ、声はどんどん掠れていって。 最終的に声が出なくなって、わたしは素直になりたくても気持ちが伝わらなくなるのかな、なんて嫌な想像に駆られた。 嫌、だ。
もう、遅いのかもしれない。 今更なのかもしれない。 けど、少しでも望みがあるのなら、どうか。
「っ御幸!!」 「苗字……、?」
どうか、わたしの気持ちを伝えさせて。
やっとのことで見つけた彼はまだ制服姿で、呼吸を大きく乱しているわたしの姿を見るなり、目を見開いた。 ただ事ではない、とでも思ったのだろうか。 わたしの誤解などどうでも良いといった様子で、いつものようにわたしを見てくれる。 一つ違うのは、苗字、と呼ぶこと。
「そんな息切らせてどーしたんだよ」
煩わしいほど肩が上下していた。 けれどそんなこと、気にもしなかった。
笑みも含めた言葉でどうしたと尋ねてくる彼の顔を、見つめる。
どれだけ強い言葉で拒まれても、 怖い、と感じる程の振る舞いをされても。
じわり、目の全体に薄い膜が張ったように視界が歪んだ。 途切れ途切れの呼吸はバカの一つ覚えみたいに思考も言葉も同じことしか言えなくなってしまいそうだった。 御幸。 みゆ、き。
「み、ゆきぃ……」
浮かぶ思い出が、次々に涙を溢れ出させていく。 止まることを、知らずに。
どれだけ強い言葉で拒まれても、 怖い、と感じる程の振る舞いをされても。 もうわたしを好きじゃなくなってても、
わたしは、あなたが好きです、
「みゆき、……好、き」 「……っ」 「御幸がわたしを……、もう、好きじゃないなら、それでも構わない。けど、わたしは御幸が、好き……、」 「……、」 「だからお願い、苗字なんて呼ばないでよ……っ」
誤解してごめんね、とか。 本当は別れたくなかったんだよ、とか。 言いたいことも説明したいこともいっぱいあったのに。 喉を通る言葉の数々はまるで言語を覚えたばかりの子供みたいだった。
「名前、」
けれど、彼がわたしの名前を呼んでしまえば、そんなことはどうでも良くなってしまうほど。 わたしは溺れてる。
「俺を嫌いになれば楽なのにさ」 「みゆ、き……?」 「……なんで、」 「……」 「何で、俺のために泣くんだよ。なぁ、名前」
一歩、また一歩。 彼がわたしの前に近付いてくる。 細めた瞳がわたしだけを捉えていて、それが心地良い。 嫌いになるなんて無理だよ。 だって、そんなことを考えただけで胸の辺りが締め付けられるほど苦しいんだもん。
「無理だ、よ」
同じ台詞を前にも言った気がする。 けれど前とは大きく意味が違うよ。 悲しい無理じゃなくてこれは、
「御幸を嫌いになるなんて、一番無理」
幸せな無理。
近付いていた彼の足が急に早くなった。 声を出す間もなく腕を取られて、引き寄せられた先には懐かしい温もりが広がっていた。 御幸の、腕がわたしの背にある。 そのことを理解するまでに少し時間が掛かった。 自覚した瞬間に例えば今まで均等であったとする涙は、決壊した川のように溢れ出ていく。
「名前……」 「みゆきぃ、好き」 「うん。ごめんな、……ごめん」
肩に彼の少し堅めの髪が当たっている。 そんな些細なことですら、わたしを歓喜させる原因になっていた。 抱き締め合う温度はあの頃と変わりがなくて、安堵が心に広がっていた。
「ごめん、な、名前。ごめ」 「御幸」 「……ん」 「なんで俺のために泣くのって聞いたよね?」 「……」 「……御幸が、好きだからだよ」
拗ねた顔に似ている表情を浮かべていた彼の瞳は決してわたしみたいに濡れてはいなかったけど、 それでも少し、赤かった。
ねぇ、御幸。 わたしが素直に気持ちを伝えていたら、
わたし達、こんなに遠回りすることもなかったのかなぁ?
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