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「何で苗字振ったの」

抑揚がないことから相手が俺を好ましく思ってないとすぐ理解した。
そりゃそうか。
こいつの好きな奴の元彼、って奴だもんな、俺。

「何でんなこと聞くんだよ」

暑ィ……、手で風を誘い込むように顔当たりで仰ぎながら、半ば面倒そうな声で掛けられた質問に対応した。
まだ五月だってのに、何この気候。
バカじゃねぇの?

自分と、太陽に言いたくなった。

「最近まで付き合ってたんだろ」
「もう付き合ってねぇよ」
「……」
「何か誤解してんのか知らねぇけど」

俺とあいつはもう関係ねぇから。

言えるはずの言葉が、嘘でも言えなかった。
おかしいよな、名前相手には言えるのに。
誰かにその事実を認めることが、それよりも難しいなんて。

本当、バカか俺は。

「……苗字は、そう思ってないよ」
「はぁ?」
「あんただって気付いてんだろ」
「……」
「苗字が御幸一也のために、泣いてること」
「……」

何でフルネームなんだよ。
いちいちムカつく言い方しやがって。

自分がまるで思い通りにならなくて苛々してるガキみたいに思えてきて、みっともねぇって思う。
それくらい感情的な考えしか、浮かばなかった。

「……分かってんよ」
「なら責任転嫁しないでくんない」
「あ?」

さっきから何言ってんのかいまいち理解しづらい言い回し。
結論を躊躇うかのような、それに俺は募る苛々を顔に出し始めた。
それを察したのか、それとも決意したのか、ゆっくりと前川は口を開いた。

「自分で泣かせたんなら、最後まで責任持ちなよ」
「は、何言ってんの?」
「俺からしたら、すっげー嫌なんだけどさ」
「……」
「苗字はあんたのことまだ好きなんだよ。顔見てたら分かる、目がいつもあんたのこと追ってるの」
「……」
「そんで見る度にすげぇ泣きそうな顔してんの」

次々と掛けられる前川の言葉。
んなこと言われなくても分かってんだよ。
分かってる。
けどどうしてもあいつのことになると今だけで満足出来なくなるんだよ。

未来を思って、それが一番ベストだって。

悩んで悩んで、やっとのことで決心した答えだったのに。
簡単に否定されたことがなんか、すげー悔しかった。

お前に俺の気持ちの何が分かんの?

自己中心的な考えが自分の中に浮かんではすぐに喉を通らないよう我慢する。
そんなこと、明確だ。
こいつは俺の考えなんて分からねーから、簡単に言える。

そしてそれは何て的確なんだろう。

失笑しか、出なかった。

自己中心、か。
心中に広がっていた靄が微かに薄くなっていく。

「お前、ムカつく」
「何とでも言えば。けど、俺が納得する結果にならなかったらそん時は怒るから」
「お前もしかしてお人好しとか言われる?」
「ほっとけ。俺は、」
「……」
「俺は苗字が笑ってくれてたら良いんだよ」

それ、納得すんのかよ。
いーのかよ。

言いたいことはたくさんあった。
けど、今目の前で名前を思って悲しそうに笑う前川の顔を見てそれも口には出せず、俺はただ、目を細めて思い出す。

別れると告げてから一度しか俺の前で泣かなかったあいつのこと。
名字で呼んだ時の顔、放課後の教室で必死に名前が描いた手のポスター、いつかの記憶。

夕方にこっそり二人でしたキャッチボール。
授業中に俺から始めた筆談。
練習中に目が合えば笑って小さく手を振って、見せた笑顔。

何て言ったらいいか分からない程沢山の記憶が浮かび上がっては消えて。

最終的に瞳の裏に残ったのはそのたった一度きりしかなかった、あいつの涙だった。

何で、
何であいつはこんな俺のために泣いてんだよ。

お互いが未来に傷付かないための近道だと思って選んだ選択肢だったのに。

「どこで、」

どこで間違えたんだよ、俺。