×長編 | ナノ



「あれ、」

見計らったような声が、した。
声に反応して、大きく上下してしまった肩。
わざとらしく、見えてしまっただろうか。
机に落としていた視線をゆっくり上げる。

御幸。

彼の名前はもう、気軽に呼べなくなっていた。
呼んでしまえば、きっと彼は何もなかったことのように笑い掛けてくれるだろう。
彼はそういう人だ。

何も、何も答えられずにいた。
名前を呼んでしまえばしまい込んだ自分の思いを再び溢れさせてしまいそうになるからだ。

「はは、今日も委員会?」
「え、うん……そっちは?」
「明日までの宿題、忘れちまってよ。いつものことなんだけどな」
「……そう」

何事もない、そんな話し方が出来ているだろうか。
完成に近付きかけているわたしのポスターを盗み見て、彼はへぇ、と感嘆の声を上げた。

「なかなか良いじゃん」

今までにない手洗いうがいの絵を描こうとした結果、思いついた構図。
後は色を塗るだけ。
それに必要な絵の具やマジックはちゃんと用意した。
けど、何故だか色を付ける気が起きなくてわたしは暫し呆けたように何をすることもなく、椅子に座ったままだった。
そんな時、現れた御幸の存在がまた、その感情を色濃くしていく。

『手、繋げますか?』

そんなキャッチフレーズを大きく主張させた、ポスター。
ペンで縁をなぞって綺麗になったそこには、手と手が繋がっている場面が描かれていた。

片方の少し細めに書いた手は、自分の手を見ながら描いた。
けれど、と、もう片方の少し男らしい骨格の手を見ながら、わたしは自嘲するような薄笑いを浮かべた。

誰の手を想像して、描いたんだろう。

「年上の人、」
「あ?」
「新しい彼女出来たの?」
「……はぁ?」

漸く手を動かす気になったのは、少しでも緊張を紛らわすため。
それと、思い出したくもない先日の光景をより鮮明に思い出さないため。

自分の口調が、無意識に強くなっていたことにわたしは気付けずにいた。

「良かったね、新しい彼女さん綺麗だし。年上なんてスゴいなぁ」
「……」

何を言ってるんだろう。
これじゃあまるで、

「お幸せに」

嫉妬、みたい。

何日前かに突きつけられた彼からの言葉をそっくりそのまま返す。
何も言わないから、本当は怖くて仕方がなかった。
その証拠に御幸の顔、見れずにいる。

乱暴に出した赤色の絵の具が、思った以上に出てしまった。

「……何が言いてぇの?」
「え、」
「訳分かんねぇ」

わたしを否定した御幸の声。

今までに聞いたことないくらい、冷たい声だった。