×長編 | ナノ



 いつもと同じ帰り道。ただ、違うのは、明日には彼がこの場所にもういないということ。彼がここにいる最後の夜は、今までに見たことのないくらい、綺麗な冬の空が広がっていた。

「とうとう明日かー」

 いつもと同じように河川敷の土手を肩を並べて歩く。時刻は九時過ぎ。明日は出発も早いらしいので、一時間早めに練習を切り上げた。卒業したわたしと暁は学校以外でも今まで通り会っていた。今日という日を迎えるまで、彼が東京へ行くことを忘れてしまったかのように。でも、それも今日でお終いなんだ。

「荷造りとか、全部出来たの?」
「うん、もう送ったよ」
「あっちでは一人暮らし?」
「違うよ、寮」
「寮、か……」

 なんかすごいな、そこの野球部ってすごいんだね。と零せば、暁はさも気にしていないかのように、空を見上げた。
 あの日。暁に、東京行きを告げられた日。確かに南の空には水瓶座が輝いていたはずなのに。今じゃ南の空にはそれは見当たらない。少し傾き加減に見えたオリオン座が、冬の終わりを告げているような気がした。
 春が、来る。彼のいない、春が。

「野球部強いってことは、マネージャーとかもいっぱい居るのかな」
「さぁ」
「……可愛い子、いるかもね」
「興味ないよ」
「あ、そう」

 まぁ、野球にしか興味ないもんね、暁。見上げていた視線を暁に向ける。と、てっきり未だ空を見ていたのかと思っていた暁の視線がこちら側を向いていたことにびっくりした。

「暁?」
「興味ないから、安心しなよ」
「え、それ、ってどういう……」
「さぁ」
「さぁって! ちょっと!」

 はぐらかしたまま行っちゃう気かこら!
 暁の名前を呼んでも、彼は先に歩いて行ってしまった。今し方言われた言葉。素直に解釈しても良いってことなのかな。どうなのかな。ぐるぐる、出口の見えない迷路に入ってしまったような気分になった。そんなわたしを遠くから笑う暁の顔が、今までのどんな彼よりも晴れやかなものに見えた。青道、合格したことそんなに嬉しいんだろうな。
途中から彼に得意科目の勉強だけでも教えるようになった身としても、彼の合格は確かに嬉しかった。嬉しかった、けど。

(明日、から)
 彼はいない。
 急に突きつけられた現実。心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな気分だった。なかなか追いついてこないわたしを不審に思ったのか、暁が戻ってきた。わたしを、呼ぶ。その声も、もう今日で、聞けなくなるんだ。覚悟してたけど、やっぱりいざとなったら寂しい。寂しい、という感情を素直に認めたことで溢れてきたのは涙だった。

「泣いてるの」
「……」
「どうして泣くの?」
「暁が、行っちゃうから」
「……」
「ごめんね、今更引き止めたい訳じゃないの。でも、やっぱり、」
「名前」
「寂しい、よ」

 三月の北海道はまだ寒い。コートを羽織っても、マフラーを巻いても、手袋を嵌めてもまだ寒かった。気温以上に、寒いと感じるのは絶対目の前にいる人物のせいだと思う。止め処なく溢れる涙を暁のせいにするつもりはないけれど、わたしは暁を睨むように見上げた。怒っているわけでもなく、恨んでいるわけでもない。やりきれなかったんだ。このままさよならしてしまうのは、あまりにも辛いから。
と、暁がわたしに向けて手を伸ばしてきた。一瞬だけ、戸惑ったようにそれを止めたけれど、再びわたしの方へ手を伸ばす。
引き寄せられた自分の体。無抵抗で暁に、預けた。

「帰って、来るんでしょ」
「うん、いつかは」
「なにそのいつかって」
「だって名前のお母さんと約束したんだ」
「えっ、いつの間に!」
「名前をちゃんと、迎えに来るって」

 あの母親は何を約束してるんだ。娘の一存もなしに。かといって反抗する理由もないけれど。ドクン、ドクン、とお互いの心臓が鳴り合っている。心地良くて、眠気さえ与えてくるほどそれは一定で、安心させるものだった。
 彼の背中越しに見えた空が大きすぎて、抱き合っているわたし達を足しても、絶対空には叶わないほど、その存在は、果てしなかった。その大きさに、自然と目を見開いてしまう。
 空が、近い。あの日も今日も、いつも空は近くて、安心させるほど、大きくて。
まるでわたしと暁を見守っていてくれているようなそれが、わたしの鼓動を、落ち着かせてくれた。

「空は、繋がってるよね」
「え、」
「北海道と東京の空は、繋がってるんだよね」
「……多分」
「じゃあ、寂しいけど、寂しくない」
「どっち」
「さーてどっちかなー」

 かみ合わない言葉を交わしながらお互いが吐く息は空に向かって伸びては直ぐ消えた。手を繋いで歩く最後の帰り道。出来るだけ早く着かないように、ゆっくり最後まで引き下がらない自分が、滑稽にも思えたけれど、暁は何も言及してこなかった。ただ、わたしの歩幅に合わせて歩き、たまにどうでもいいような会話を交わした。
 最後に、じゃあね、とだけ呟いて、それぞれの家に入る。パタンと閉じられた向かいの暁の家を見つめながらこれで最後と、わたしは涙を流した。

 三月の北海道はまだ寒い。寒いはずなのに、暖かい。わたしを抱きしめてくれた彼の体温が、とても暖かかったのと、わたしの耳元で囁いてくれた言葉が、優しかったから。

「迎えに来るから。絶対。……待ってて」

 空を見上げれば、きっと寂しくなんかないって、信じてるから
 だから、迎えに来てくれるまで、見上げるよ
 だって空は繋がってるんでしょう?

ミクロコスモス

 次会った時には笑って、お帰りと言わせて。



200807XX end