×長編 | ナノ



 学校帰り、いつも暁が居るか確認するために歩く河川敷。ここ最近はその姿を見ることも少なかったのに。壁に力強く打ち付けるボールの音。わたしを取り巻く時間だけが、止まっているような気がした。暁が投げているのを見たのは、久しぶりだった。

ミクロコスモス:4

「珍しいじゃん」

 自分から話しかけるのも、本当に久しぶりだった。と言ってもわたしの家に暁が来た日から一週間も経っていないのだけど。あれほど毎日のように交わしていた会話をぱったりと止めてしまったのは初めてだったから、その時間がとてつもなく長く感じた。そして確実にそこには以前にはなかったはずの違和感が存在している。

「勉強はいいの?」
「……ストレス溜まってたし、息抜き」
「うん、息抜きも必要だよね」
「……何しに来たの」

 なんだか。なんだか拒絶されたような気分になった。
 ぶっきら棒な言い方はいつも通りのはずなのに、慣れていたはずなのに。今は彼の沈黙が、何故か怖い。

「……帰り道。たまたま通りかかったら暁の姿見つけた」
「そう」
「邪魔なら帰るけど」
「別、に」

 言葉を返しながらまた一球、ボールを投げる。それは人の居ない場所に当たって、虚しく草むらに落ちた。心に虚無感とか、悲しみとか、色々な感情が混じっている。草むらを踏み分けながら、彼はボールを回収し、再び壁と距離を取って、また投げる。鈍い音が、上と前後をコンクリートで囲んでいるこの場所に響き渡った。

「自分の居場所」
「え、」
「……青道なら、見つけられる気がするんだ」
「……」

 あっけなく、言い放ったなこのやろう。
 わたしは、暁にとっての居場所にはなれないってこと。無自覚なのか、遠まわしにわたしを振っているのか。まぁ、大っぴらな告白はしていないから振る、というのは若干ニュアンスは違うんだろうけど。壁に反射して落ちたボールを拾い上げながら、彼は今度は壁と距離を取ろうとせず、そのままコンクリートを見つめているようだった。手をすり合わせて息を吹きかける。寒くなってきた、な。体感温度が、寒さを訴える。きっとそれは日が落ちたことだけじゃなくてきっと、きっぱりと彼が言葉で示してくれたからというのも、あると思う。
 ……寒い、なぁ。

「野球で、だけど」
「え、?」
「もし、さ」
「もし、?」
「あっちで……もし僕が通用しなかったら」
「そ、んなこと、ない!」

 反射的に言い切ってしまった。本当にわたしは、後になってから後悔するタイプだ。何を口走ったか、とか、感情に任せて発言してしまうことが多い。今の場合もまるで東京に行くことを応援しているような人の台詞だ。これには暁もびっくりしながら、言ってること矛盾してない、と珍しく笑った。

「行くからには、頑張って欲しいと思う、から。行って欲しくないのは山々だけど、でも、」
「……」
「わたしは、暁のこと応援してるんだから!」
「……」
「なに笑ってんの」
「別に。もしさ」
「え、うん」
「何かあって、弱気になったりとかしたら」

 暁が握り締めていたボールが、本当に軽い力でこちらに投げられた。女の子でも取れるほどの、軽い力。差し出したわたしの手が、その白い球を取りこぼすことなく受け取った。いつも見ている速球じゃないことに安心はしたけど、意図が読めない。暁、と呼んだのと彼がわたしの名前を呼んだのは、ほぼ同時だった。

「連絡、してもいいよね」
「さと、る」
「応援するんでしょ?僕のこと」

 だったら良いよね。自己完結で終わらせて、彼はまた再び投球練習に戻った。壁の悲鳴。乾燥した草を踏む暁の足音。地を蹴る暁の足。たまに通る車の音。暁と話さなかった時間はあれほど長く感じたのに。自分の調子の良さに笑えてしまう。彼に、頼られたこと。東京に行っても、連絡するという口約束。踊らされているような気もしたけれど、すごく嬉しかったことに変わりはなかった。
 あれほど泣きそうになりそうだった彼の一人で野球する姿が、今は、悲しさが薄らいでいた。これは東京にいくための前準備のようなものなのだ、と。
 投げ渡された白いボールには泥で汚れ、縫い目が解れるほど投げ込んだ跡がある。何故か知らないけれどそれを見つめながら、わたしは心がだんだんと変わっていくのを感じた。

「ねぇ、暁」
「……何」
「わたしで良かったら、勉強、教えるよ」
「……」
「数学は無理だけど、英語とか、なら少しは」

 ボールに視線を落としたまま、半ば独り言状態で、つらつらと言葉を零す。心境の変化、とまではいかないないけれど、ほんの少し、覚悟は出来た。と思う。だってどうしたって彼の決心は鈍らないそれなら、今わたしに出来ること。精一杯、彼を応援していきたい。
 それしか、出来ないんだから。
 一度練習をやめて、鞄からタオルを取り出した暁がありがとうと、ぼそりと呟いたのをきっかけに、わたしはまた彼の練習を眺めることとなった。