×長編 | ナノ
泣き腫らした目を一番見られたくない人が訪問してきた。エプロン姿の母親が階下から大声でわたしを呼ぶ声がする。泣いたことで襲っていた睡魔が、一気に覚醒する。
「降谷さん家の暁君が来てるわよ!」
体が、気だるかった。
ミクロコスモス:3
「ごめんねぇ、暁君。この子ったらいつも暁君の邪魔ばっかりしてるでしょう?」
何で、この展開なの。げんなりしながら食卓に並ぶいつもより豪勢な食事に目を落とす。
「久しぶりに暁君が来たことだし、ちょっと頑張って作ったからいっぱい食べてね」 「……ありがとうございます」
不器用に礼を言って頭を下げた暁の顔が、直視出来なかった。あんな我侭言った後なのに。空気読んでくれ、母。
「いやぁ、それにしても暁君もかっこよくなったわよねぇ」 「……」 「ねぇ、名前」 「知らない」 「やーねぇ、この子ったら! いつも暁君お迎えに行く時あんなに嬉しそうな顔してるくせに!」
含んでいた味噌汁を思わず噴きそうになった。いや、確実に危なかった。
「ちょっと、お母さん!」 「将来は安泰だとか何とかでお父さんもそれなりに納得はしてるみたいよ?」 「いや何の話!?」
同じく味噌汁を啜っていた暁が咳き込みながらわたしを見た。けれど何となく恥ずかしくなって、わたしは顔を逸らす。その間も母のマシンガントークは止まらない。やだ、いまだけこの母親、やだ。今現在反抗期を起こしている年子の妹のことが少しだけ理解できた。その妹は今日も部活でまだこの場にはいない。仕事に追われている父親も帰ってくるのは九時過ぎだ。 時計は八時半。 この時間に食卓に並ぶ人数がいつもと違う。それが嬉しいのか、はたまた暁と久しぶりに会ったからか、母親が嬉々として暁に話しかける。
「そういえば暁君、高校はどこにいくの? やっぱり苫小牧?」 「あ、いえ、僕は……」 「っごちそうさま!」
話を遮るように、箸を置く。あら、早いわね、なんて言っている母親の後ろのキッチンに自分の食器を運びながら、またも自己嫌悪。でも、高校の話なんていまは聞きたく、ないよ。
「名前」
これ以上この場所にいたくなくて、さっさと自分の部屋に行こうとしたわたしを、暁が呼び止めた。反射的にそちらに振り向いてしまう自分が、悲しい。
「後で部屋行く」 「……」 「こーら、名前! 返事しなさい!」 「はいはい、分かったからどうぞごゆっくりー」
ヒラヒラと手を振って、居間を後にした。今頃、お母さんと暁はきっと高校の話とかしてるんだろうな。ちくん。胸が痛む音がどこかから聞こえてきそうで、それを掻き消すために少し大きめの足音を立てながら、階段を上った。
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「で、何の用でしょか」
宣言通り食事を終えた暁がわたしの部屋を訪れた。一緒にお茶を持ってきた母親を一蹴した直後、扉を閉めながら尋ねる。座布団に腰を下ろした暁が、何か考え事をしながら口を開いた。
「数学の参考書、……ありがと」 「あー、あれか。あれ分かりやすいからもし使うんだったらあげるよ」 「いいの?」 「うんわたし別の奴も使ってるし」
図書館で乱暴に置いた数学の参考書。どうやらその意図を読み取ってくれたらしく、それはそれで良かった。暁に何か手助けが出来たらとは思ってたから。それがもし暁を東京に近づけてしまうことになってしまっても、だ。素直に勉強を教える、なんて、まだ、無理だけどれど。
「あとあれ、意味わかんなかったんだけど」 「は? あれ?」 「東京行かないでって奴」 「ぎゃーそれもう言うな」 「何で?」
机の椅子の背もたれを鳴らしながら、考える。 何でって、何でだろう。とにかくあの言葉は咄嗟に出た本音で、それはもうとてつもなく後悔した発言だったし何より自分の身勝手さに顔から火が出そうなほど恥ずかしいものだったのだ。だから思い出させないで欲しいの、に。
「……我侭でしょ」 「何が?」 「暁が、有名になったら、嫌だなって思ったの」 「え、」 「勿論それもあるけど、何より」
うまく言葉がまとまらない。自分の中にある語彙力を纏めながら、落ち着きを取り戻すためにお茶を一口飲む。予想以上に熱かった。
「暁が遠く離れてしまうのが、嫌だったから」 「……」 「嫌、だよ。暁、ねぇ。ずっと暁の隣に居たいの。だから、」 「ごめん」
わたしの言葉を、もう聞きたくないと言わんばかりに遮った暁の声は、思い上がりかもしれないけれど微かに震えているような気がした。 謝罪の言葉なんて、聞きたくないのに。無表情でも良いから冗談でしたって、らしくないこと言ってよ。ねぇ、どうして? ごめん、なんて、
「それでも僕は、青道に行きたいから」
ごめん、なんて、悲しいこと、聞きたくなかったよ。もうこれ以上自分の本音を曝け出すことを我慢するかのように、ぎゅっと、堅く唇を噛み締めた。
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