×長編 | ナノ




 テレビばっか見てないで、勉強したらどうだ。夕刊を今更になって読み返す父親に言われたくない、と時計を見た。夜、十時。そろそろあいつが帰って来てもいい頃だと、寝転がっていた体を起こす。するといつもの行動パターンに慣れてしまっている母親が困ったものだとわたしを見ながら溜息混じりに言った。

「あんたも女なんだからいい加減、こんな時間に出歩くのは止めめなさいよ」
「いーじゃん、すぐそこだし。途中から暁もいるんだから」

 言ったところでわたしの意志が変わらないことを両親は知っているからか、それ以上は咎めて来なかった。ただ、暁君にあんまり迷惑掛けちゃだめよ、と牽制するだけで終わる。見終わったテレビをそのままにわたしは立ち上がった。鼻歌交じりに無造作に置いてあった自分のコートを手にし、羽織る。いってきまーす。誰に言うでもなく、日常化してしまった言葉を少し大きめの声で言ってから今の扉を閉めた。暖房の効いていた部屋から玄関までの廊下が一瞬で暖かい自分の温度を奪っていく。きっと外はもっと、寒いのだろうな。忘れないように手袋とマフラーを持った。それと。
 玄関先で見つけたホッカイロ、一つ。

ミクロコスモス:1

「や、お疲れ」

 また来たの、とでも言いたそうな視線だった。もうとっくに帰る準備は終わったのか、大きな鞄を肩に掛けまさに今から帰ろうとしている風の暁に背後から声を掛ける。振り返った彼の姿は、もうすぐ真冬だと言うのに、酷く季節外れのようだった。

「どれくらい頑張ったらそんなに汗掻けるんだか」
「……」
「今日、も、お疲れ様」

 わたしの足元に一つ忘れられそうな野球ボールがある。手袋を嵌めた手でそれを拾い上げて、そっと暁に差し出した。ついでに渡そうと思ってた、未開封のホッカイロも一緒に。
 無言でそれらを受け取る彼の姿にわたしは今日も、泣きそうになる。
 シンとした河川敷には静かな川の流れ以外、音はない。闇が落ちた辺りは、晩秋らしくとても暗かった。最近着始めたコートに顎と口を埋めながら、暁を見た。ホッカイロの袋を開けている手が、泥で汚れていた。何で。何で、暁ばっかり、こんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。

 と、同時に理由付け、もとい否応なく罪をなりつけてしまう相手の姿が思い浮かんだ。直接会話をしたことはほとんどないけれど姿は嫌と言うほど見てきた。暁の嘗ての、チームメイト達。
 自分が野球する場所、失くしたのはあいつらなんだから悔しくはないのか、と前に尋ねたことがあったけど暁はうんともすんとも言わなかった。ただ、少し沈黙した後、別に、とだけ答えた暁の顔が今でも忘れられない。
 それからだ。河川敷で一人壁に向かって投げ込みをする暁を見る度、泣いてしまいそうになる。

(わたしが、泣いたところでなにも変わるはずがないから)

 泣かない、けど。

「……目、赤い」
「え、嘘」
「ホント」
「走ってきたからかな」
「走ってきただけで目は赤くならないって」

 真っ白、とまではいかないけど薄く息が、色を変えた。体の外側と、走ってきたせいか温まった内側との温度差が煩わしい。何でもないよ、ただそれだけを呟いて、今来た道をわたしは再び戻り始めた。来た道との大きな相違は一つ。目の前に暁がいること。
 河川敷からそう遠くない暁とわたしの家は近所で、昔からの付き合いだ。かと言ってわたし達の間には特別な感情はない。ただ、同じ高校の同じクラス。それだけ。
 そこに、一方的な感情があったとしても、きっと可能性は低い。のだ。……自分で言って若干胸が痛むけど。

「ね、暁」
「……」
「もうすぐ冬だよ」

 河川敷の土手から見上げた空が、普通の道よりも近いような気がして嬉しくなった。南の空に自分の星座だからと言う理由だけで覚ていた水瓶座が見える。他にもたくさんの星座があるんだろうけどわたしは北斗七星と水瓶座とオリオン座しか知らない。そういえば暁は何座だっけ、と考えながら進めていた足が、不意に止まる。わたしの前を歩いていた彼が、そうしたから。

「暁?」

 首に巻いていたタオルを取って、ジッパーの開いた鞄に詰め込む。そして直ぐに先程のわたしと同じように空を見上げた。釣られるように、わたしも再び視線を上げる。

「……お腹減った」
「うん、帰ろっか。暁の家の今日の晩御飯は?」
「……多分カニ玉」
「あ、いいなー」
「名前」
「うん?」

 どうでもいい話をしながら、帰ろう、というわたしの言葉で止めていた足を再び動かせた彼が、ポツリとわたしの名前を呼んだ。わたしはわたしで、少し歩くスピードを上げる。彼の隣に行くために。

「……東京の高校に行こうと思うんだけど」
「え、」

 それ以外、何も、何も声が出なかった。ただ、何度も止めては歩き、を繰り返していた足が完全に止まってしまった。空を見上げる余裕も、暁の顔を見る勇気も無くて、ただ地面を見つめることしか出来ない。ねぇ、暁。
 いま、なんて言ったの、?

「とう、きょう?」
「うん」
「ここの高校に、行かないの?」

 うん。最後通告のようだった。いつもなら隣を歩いて帰るこの道が、遠い。暁が、遠い。

「何で」
「雑誌で、行きたい高校が見つかったんだ」
「東京の?」
「そう。あそこなら、僕の球を受け止めてくれる人がいるかもしれないから」
「……っ」

 さっき以上に胸が痛んだ。そんなこと言って、わたしはどうしたらいいの。どう答えたらいいの。どう、笑えばいいの。

「……暁、成績やばいのに東京の高校なんて行けるの?」
「それで、」
「え」
「勉強、教えてほしいんだ、けど」

 自分から何かを願うこと自体、珍しいのに。嫌いなことを乗り超えてまでその高校に行きたいんだ。振り返って、わたしを真っ直ぐ見ている暁の顔を、漸く直視することが出来た。暗闇を、味方に付けながら。きっともっと明るい場所だったら、出来なかったと思う。先程まで綺麗だと見上げていた星空の明るさが少し、憎い。

 どう反応したら良いか分からなくなって必死に笑いながら逸らした話題が、かえって彼の意思の強さを実感する羽目になるとは。なかなか歩き出さないわたしを不審に思いながら暁がもう一度呼ぶ。名前。その声が、冬を越えて来年の春にもしかしたらもう聞けなくなるなんて、考えたくなかった。
 考えもしなかっ、た。

「……他、」
「え?」
「他あたって、わたしだって、受験だもん」
「……あ。そっか」
「ごめん」
「うん、いいや。自分で何とかするよ」
「何とか出来るの?」
「何とかしなきゃいけないし」

 自分の性格が、これ以上嫌なものだと思ったことはない。だって、暁に勉強教えることになったら、彼は東京へ行ってしまう。東京へ。そんなの、わたしに耐えられる?自問自答した結果が『他当たって』なのだ。ぎゅ、と握り締めた手袋越しの手は毛糸に包まれているというのに凍ってしまったかのように堅かった。

「ごめん、先、帰る」
「え、名前」
「また明日、学校でね!」

 強く言い放って、前を歩いていた暁の横を通り過ぎて全力疾走で家まで駆け抜けた。
 玄関の扉を開けてもいつもどおりただいまが言えなくて、そのまま階段を駆け上がり自分の部屋のドアを乱暴に締め切った。家族の誰も入って来れないように鍵をする。扉に寄りかかりながら、膝を落とす。ぐるぐると回る思考回路が、必死に冷静さの不足を訴えていた。自分の膝元を見つめながら、暁の声が、ずっと木霊している。
 東京? ここから、いなくなる? 誰が?

「さ、とる……」

 悲しみよりも驚きの方が圧倒的で、折角泣きそうになったから逃げてきたのに。結局この日わたしは泣けなかった。

「……、」

 ただ、外の空気と同じくらい寒い自分の部屋に、白い息が、現れては消えている。
 野球が出来ない寂しさをわたしじゃ補えないこと。東京という場所へ行けば彼が自分のしたいことを出来るということ。わたしは、どうしたいいのか分からないということ。応援したい。けれど、離れたくない。
 ごちゃごちゃした頭の中はやがて睡魔に襲われ、同時に咬み零した欠伸だけがわたしの涙腺を刺激していた。毎日寄り添っていたはずの河川敷での風景が思い出せない。いつもわたしはどうやって笑っていたっけ。いつも、暁の隣にはわたしがいて、隣り合って何かを話しながら家まで歩いて帰っていたはずなのに。
 もう、隣に歩み寄ることさえ許してくれないの?