×長編 | ナノ



 病室の扉の前で一度大きく深呼吸をした。すー、はー。傍から見れば怪しいことこの上ない。どきどきする。けれど心なしか震える手を勇気でもって制して、控えめに扉をノックした。降谷暁様、と書かれたプレートにもう一度目をずらして確認する。合ってるよね。そんなことしていると控えめなノックに呼応するように降谷の小さな声が扉越しに返ってきた。どうぞ。ゆっくりとした調子でドアノブをまわして、扉を開けた。

「……先輩」
「や、降谷。大風邪引いたんだって?」

 あくまで軽快に、あくまで明るく。緊張しているのを悟られないように、いつも通り振舞った。どきどきと、心臓が煩くなっている。降谷の表情が驚きと困惑に満ちていて、笑えた。投手ってそんな分かりやすい人がしていいものなの?もしかしてこれはわたしだけに見せてくれる表情なのかもしれない。都合の良い解釈に自嘲しながら、わたしは備え付けの椅子に了承も得ずに座った。お咎めはないから、大丈夫そうだ。

「風邪、大丈夫なの?」
「はい、大したことないです」
「そっか。なら良かった」
「先輩どうして居るんですか」
「御幸に病院聞いた。風邪引いたってことも」
「そうじゃなくて、学校は」
「抜け出してきた」

 は、と間抜けな声が返ってくる。なんなんだろう、この天然っぷりは。そういえば最初に御幸に降谷ってどんな奴?って聞いたときも天然ボケだとかバカだとか聞いていたけどまた新たな一面を見た気がする。そうしてどんどんわたしの中で降谷の表情に関する記憶は豊かになっていく。それが無性に嬉しい。
 何気なく手を伸ばした先の降谷の額は想像以上に熱かった。こんなんで大したことないって言ったら世の中の大半の風邪の症状は大したことない部類になるんじゃないか。それぐらい熱かった。

「ていうか、全然平気そうじゃない」
「平気です」
「強がり」
「平気だって。先輩学校戻ってください」
「やだね」
「戻って」
「やーだ」
「……頑固者」
「そりゃこっちの台詞」

 こんなんで強がりしてるうちはまだ大丈夫かもしれないけど声色にいつものマイペースさが薄い。額に当てていた手を引っ込めると、直ぐにそれを布団の上に投げ出された降谷の手に添えた。びくっ、と反射的な態度。怖いのかよわたしが。なんとなく笑える。

「辛いなら辛いって言いなさい」
「こんな時ばかり先輩面……」
「こんな時だから」
「……別に辛くない」
「あーそう」
「先輩に、会えない方がもっと辛い」
「……降谷、?」

 起き上がっていた彼の体が、崩れる。こちらに向かって。それを受け止めたわたしともたれ掛かる降谷。今誰かが病室に入ってきたら一目瞭然で誤解されるだろう。いや、別に構わない。もう、それが望みかもしれない。息が途切れ途切れに荒々しい彼がそれでも言葉を口にしようとする。制止しようとしたわたしの手さえもはねのけて。頑固。やっぱりこっちの台詞だ。

「返事を貰えないのも辛い。ぎこちなくされるのも辛い」
「降谷」

 やっぱり、ここまで追い詰めてたなんて。実感が今更じわりじわり心に染みてくる。抱き留めた彼の体はもの凄く熱くて、子供体温なんて生半可な表現を超えてしまうほど。口元に当たった彼の髪の毛を何となく、撫でる。気持ちいいのか、目を閉じて、素直に従っている彼がとてつもなく愛しく思えた。心配、したよ。そう言っても何も返ってこない。寝てるのかな、と思って体をベッドに戻そうとしたら止められた。

「降谷?」
「もう少し」
「……じゃあ、このまま聞いて」
「……」
「わたしも降谷が、好き、だよ」

 だから、付き合いたい。わたしの言葉に反応が返ってこない。でもちょっと経ったら、うん、て言葉が聞こえた。愛しくて、可愛くて、いつもの降谷とは思えなくて、でも愛しくて。ふふ、と笑ったら何が可笑しいの、と言われた。敬語、無くなってる。

「降谷は人と付き合うの初めて?」
「うん」
「そっか。わたしも。だから何したらいいか分かんないや」
「こうしてたら、良い」

 あーなるほど。でも風邪は勘弁して欲しいな。そう笑えば、彼は少し拗ねたのかすぐ治すとだけ言って、わたしから離れた。いつも格好良いと思っていた野球している降谷とは、違う一面。それを見れたのがわたしだけということ。取り巻きが降谷の名前を好意的な感情と共に呼んだこと。思えば最初、試合を何気なく見て降谷を見たあの時から、全ては始まっていたんだと、今なら思う。


 グラウンドの舞台で力投する彼の姿を初めて見たときはまるで樹木のような人だと思った。大空へ羽ばたくことも出来ずに、ただ地に根を張って。それでも必死に伸びようと、努力を積み重ねる。成長する。
 けれど。
 今は彼は鳥だと思う。大空へと羽ばたきそうな、雛鳥。飛ぶために懸命に努力して、模索して。そして、やがてどこか遠いところへ飛び立って行ってしまうかもしれない。でもそれで良い。
 わたしは雛鳥を支え、見守る木の枝のように彼の傍で、支えていきたい。


何にも出来ないかもしれないけど、傍に居るよ




20080629/完結