×長編 | ナノ
無人の執務室に足を踏み入れる。誰の姿もなかった。私専用、というわけではなく同僚のひとりと兼用で使用している。そういえば同僚は今日一日休暇を取っていたんだった。日差しを防ぐために窓に掛けていた引き物を剥ぐと、待っていましたといわんばかりの陽気が部屋に入り込む。暖かいを通り越して、もうずいぶん暑い季節になってしまった。夏が苦手な私としては、億劫なだけなのだけど。 暑いのは苦手だ。休みをとっても仕事をしていても疲れが溜まる一方で、うだるようなあの熱気のことを考えるだけで辛い。 対照的に、と私は視線を投げ掛ける。陸遜さまは得意そうだな、と何となくそんなことを思った。
「良い天気ですね」 「少し暑いですけど」 「名前殿は暑さに弱いのですか?」 「弱い、というより苦手というか。陸遜さまは強そうですね」 「それはまたどうして?」
何となく、です。 詰まらせながらも私の説得力のない発言に陸遜さまは笑った。その拍子に彼の髪飾りの浅葱が揺れる。あ、と私は小さく呟いた。光を受け、金属部分がきらりと光る。その光景があまりにも綺麗だったからだ。
「陸遜さま」 「はい」 「その飾りは、とても大事なものなんですか?」
問うてから、少し後悔した。何を聞いているのだろう、と。口元を抑え、失言したかなと思案していると彼は気を悪くするようなこともなく頷いた。「はい、とても」、と。慈しむように自分の髪に触れ、浅葱のそれを揺らす。
「これは祖父に頂いたものなのです」 「お祖父さまに?」 「はい」
そういえば、と脳裏に思い返す。甘寧さまが以前、陸遜さまの家について何か零していたことがあった。 とても切なげな陸遜さまの表情から目が離せない。辛い、悲しい、寂しい、けれど懐かしい、暖かい。複雑な表情だった。色んな感情が絡み合って、しようと思っても出来ないような表情。背負っているものの違いを見せられたような気がした。 のうのうと生きる私にはきっと、理解出来ないなにかを彼は背負っている。
でももし、それが。
「陸遜さま」 「なんでしょう」 「言葉じゃ、いくら言っても信じてもらえないかもしれませんけど、私は貴方にそんな顔をしてもらいたくないのです」 「名前殿?」
それが、彼を苦しめる所以なのだとしたら。 陸遜さまに向かい合い、私はその手を取る。あまりに冷たくて、私は一瞬びっくりした。暖かなこの季節に、彼の手は隔絶されたかのような体温だったのだ。その手は武人にしては随分華奢で、男性にしては随分と細かった。刃を振るっていたときには思いも寄らなかったその事実に、私は怯みかけた。けれど真っ直ぐ、彼の瞳を見つめる。薄鈍色した彼の瞳が、同様に彩られていた。
「せっかく助かった命で、悲しいとか辛いとか。思う方が損じゃありません?」 「……損、ですか?」 「ええと、私、そこまで言葉が上手くないんです。だからもし語弊があったら先に謝っておきます。でも、陸遜さまにはそんな顔して欲しくない」
そんなに変な顔していますか、と彼は笑った。首を振る。本当に悔しいことに、言葉が出てこない。詳しいことは知らないし、話そうとしないのなら無理に聞くことなんて出来ない。中途半端に首を突っ込んで、生意気な口を、と思われるかもしれないけれど。 私が知っている陸遜さまはいつも辛い顔をされている。怪我に臥せっていたときから。穏やかに笑っていてもそこに見え隠れする寂しさのようなものは感じていた。それをどうしようと思うことは考えていなかった。今の今までは。けれど、垣間見た、彼の過去。それを知ってしまって、ほうっておけることなんて出来なかった。
力に、なりたい。 そう決めたのはほかでもない自分自身なのだから。
「名前殿、あの、手」 「あっ、すみません」
指摘され、慌てて握っていた彼の手を離す。勢いとはいえ、とんでもないことをしてしまったものだ。仮にも、上官である彼に対して。頭を下げる。陸遜さまはやっぱり笑って、それを許してくれた。
「少しばかり、胸に痛みました」 「え?」 「せっかく助かった命ですし、そうですね」 「陸遜さま?」 「……仇とか、憎いだとか。とっくに詰まらない意地など捨てたはずなのに、それでもまだ私は」 「……」
仇、と私は反芻した。 あまりにも現実離れした言葉だと思った。私が生きていた世界の中にそんな言葉は滅多に出てこなかった。それがまるで当たり前のように陸遜さまの口から放たれたことが、悲しかった。これが戦乱というものであるのなら、なんという現実なのだろうと。 呂蒙さまが以前言っていた。「こいつは少し、不器用でな」と苦笑しながら、陸遜さまを見ていたこと。その意味を、理解した。
誰かに甘えることを知らずに、彼は生きてきたのだ。そんな彼を支えるものはただ一つ。家族から貰った、浅葱色のそれだったのではないか、と。
「……なおさら、私は」 「名前殿?」 「そんな大切なものを、どうしてすぐにお渡ししなかったのかって、ちょっと。何か、自分のことふざけんなって今殴りたい気分です。といいますか、忘れていたんです。渡すことを」 「……」 「そんな大事なものだって知らずに、ちゃんと渡していれば陸遜さまだって、無理をすることもなかったのに」
俯いて、唇を噛み締める。忘れていた自分が恥ずかしかった。真っ直ぐな彼の態度が、自責の念を掻きたてる。
「ですからそれは」
ふわり、と頬に何かが触れた。
「私が落とさなければ良かっただけの話です」
何か、と理解する前に視界はそれを捉えた。陸遜さまの手。咄嗟に顔を上げれば、距離を詰めた彼の顔が思った以上に近くにあって、驚いた。けれど彼の手の冷たさが、熱くなっていた目頭をせき止めてくれたのも事実だった。恥ずかしい、けれど助かった。もう少し遅かったら私は、無責任にも泣き出してしまっていたかもしれないから。
「陸遜さま」 「……すみません、私も話下手なもので。上手く言葉が。……それでもあなたがそのように悲しむ必要なんて、ないんです」
瞳を歪めて、彼は私の感情を汲むように囁いた。そのことが、辛かった。どこまでも甘えない人だと、それなのにこんなにも辛い思いを抱いている人なのだと。ひしひしと感じてしまったからだ。
「……どうして」 「え?」 「どうして、陸遜さまはいつもそうなのですか」 「どういうことですか?」 「私は、あなたにもっと笑ってもらいたい。穏やかに笑うあなたの顔を見たい」
彼の安息の場所となりたい。 折角塞き止めていた思いが再び溢れ出す。つん、と目頭に痛みが走った。瞬きの一つでもしようものなら、たちまち私の頬は涙で濡れてしまいだろう。出来るだけ、その瞬間を遅らせることに努力した。止めることなど、もう無理そうだったから。
頬に宛がわれた彼の手に、自分のそれを重ねる。酷く穏やかな温度の行き来を楽しむ暇もなく、私は、必死に言葉を紡ぐことしか出来なかった。
「もっと頼ってください。私じゃなくてもいい、誰が相手でも構わない。少しでも気持ちを分かち合って、それで」 「名前殿」 「一人で何もかも背負うなんてことは、とても寂しいことです」 「……」 「甘えてください、陸遜さま。もっと、周りを頼ってください」
彼と出会ってから今までのことを思い出す。 溜まった仕事を誰かに任せることなく黙々と片付ける姿。こちらの助言にも耳を貸そうとしなかった姿勢は、見ていて歯痒い気持ちになった。そして、探し物をしていることすら、話してくれなかった。大人しく養生に入った後でもそれは同じこと。私が施す介抱の間でも、彼はこちらの負担を減らそうと尽力してくれていた。 思い返す。そして、理解した。 彼はいつも、一人で何倍ものものを背負っているのだと。
「名前殿」
そしてそれは、きっと彼の今までの人生が成り立たせたもので。私一人の言葉でどうにかなるほど、浅いものではないということ。
「ありがとうございます」
にっこりと笑って、彼は私の頭を撫でてくれた。まるで子供をあやすようなその手つきに、とうとう私は泣き出してしまった。 辛いんじゃない。苦しかったんじゃない。
酷く、寂しかった。
(ep1*end)
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