×長編 | ナノ




 ぽかぽかとした陽気に目を細めた。暖かな日差し、穏やかに吹く風が季節は春だと告げているようだ。

「すっかり暖かくなりましたね」

 慌しく人々が過ぎ去る廊下を抜け、縁側を越えるとあたりは一気に静寂さに包まれていた。下足に変え、手入れの行き届いた庭先に出る。
 砂利の踏む音と、鳥のさえずりだけが耳を擽った。平穏だ。ここ最近の慌しさがまるで嘘だったかのような、穏やかさ。この後仕事へ戻るんて、到底考えたくなかった。
 そういえばここで働き始めてそれほどの月日が経っているけれど、こうして庭先に出たことはなかったことに気付いた。目新しいものに視界は落ち着きをなくす。その矛先はやがて、庭の奥に掘られた小さな池に行き着いた。足を止め、水の中を覗き込むように屈むと、隣を歩いていた陸遜さまがそんな私に倣うように腰を下ろした。

「魚がいるかなあと思ったんですが」
「空っぽですね」
「残念」

 透き通った水が張られているだけで、そこにすいすいと泳ぎ回るような生き物は見当たらなかった。勿体ない。きっと鯉の一匹でもいたものなら風情もまた違っただろうに。
 水面に映りこむ自分の顔、隣の彼のそれ。その上方にある枝の影に、私は顔を上げた。
 木蓮が咲いていた。

「春、だー」
「ええ」
「陸遜さま、寒くはありませんか?」
「大丈夫ですよ。ここはとても暖かいです」

 そうして、腰を上げる。水面に映りこんだ木蓮の枝を、直に見るとそこには色とりどりの花が咲き誇っていた。白、紫、紅。彩色豊かな花びらに、陸遜さまが不意に顔を綻ばせているのに気付いた。

「陸遜さまは木蓮がお好きなのですか?」
「え?」
「……なんだか、すごく穏やかに見ていらっしゃったから」
「好き……、そうですね。嫌いではありません」
「そういう返しは卑怯だと思いますけど」

 会話が上手いと、私は最近知った。
 こちらが何かを知ろうと本音に迫ろうとしても彼は笑ったり、軽快な口振りで巧みにこちらの話題を逸らす。そうして何事もなかったかのように変わらない姿勢を貫くのだ。なんというか、人との距離感を大きく取っている人なのだと思った。
 それを、私が寂しがる必要性など、ない。

「いつもそうですよね」
「何がですか」
「陸遜さまは笑ってらっしゃる。陸遜さまだけじゃない。ここにいる人たちはみんな往々にして、頑固というか、真っ直ぐというか」
「そうでしょうか?」
「そうです。こちらがいくら注意しても、我を貫くひとばかり」
「それは、すみません」

 先の一件を思い出したのか、陸遜さまは苦く笑った。「別に責めているわけじゃないです」そう言ったものの、どうしてか自分の口調がすねているようなそれに似ていて。少し恥ずかしくなった。何を言っているのだろう、と。

「人を心配させるのが、とても達者です」
「それは褒めていますか?」
「いいえ、誰も陸遜さまのことだなんて言ってませんけど」
「でも少し、心が痛いです」
「それは思い当たる節があるからでは?」

 辛辣です、と陸遜さまは笑った。また、誤魔化されたような気がした。
 不意になんとも言いがたい感情が襲い掛かってくる。言葉にするならばなんと言うのだろう。疎外感のような、虚しさのような。それはとても冷たい色をしていて、私には酷く似合わないものだと思う。それなのに、どうしようもなく、寂しさのようなものが消せずにいた。

「何のために」
「……名前殿?」
「すみません、少し。少しだけ、なんか変な気持ちになっちゃって」
「私の、」
「陸遜さまのせいじゃ、ないです」

 困惑している。
 早く、落ち込んだ気分をなくしてしまえ私。陸遜さまを困らせてどうするんだ。言い聞かせても、どうにも引きつった笑みしか浮かべられないのが悔しかった。
 どうか見ないでください。そんな願いを込めつつ、陸遜さまから顔を逸らす。水の張られた堀をじっと見つめているとその水分に、涙腺が刺激されそうになった。しまった、逆効果だ。

「知っていますか、名前殿」

 ぽつり、陸遜さまの声が場に落ちる。

 何を?
 言葉にならない私の問い。沈黙の中でそれを悟ってくれたのか、陸遜さまは続けた。

「木蓮の花びらは必ず北を向くんです」
「……」
「詳しいことは分かりませんが主となる幹にそう咲くよう、命じられているんでしょう。遙か昔から、ずっと春が訪れる度に」
「必ずですか?」
「ええ、必ず」
「それは」
「まるで、国のようではありませんか?」

 はっ、と顔を上げる。
 視線の先、陸遜さまは目を細めて手を伸ばしていた。すぐに手の届きそうなところに咲いている木蓮の花びらに触れるか触れないかの距離。その微妙な間隔を保ったまま、彼は口を開いた。

「主のために、国のために、大望を成し遂げる。一つの方向を見て、凛とした花びらを誇らすこれらを嫌いになれという方が私は難しい話です」
「……」
「そして、羨望でもある」
「羨望?」
「私もいつしか、この木蓮達のように凛と佇めたら、と」
「……」
「成し遂げたい思いがあります。だから、私は戦うのです」

 なんとも形容しがたい感嘆に息を零す。と、陸遜さまの指先は木蓮との距離を縮めた。そっと壊れ物に触れるかのように花びらを撫で上げる。空に向かって大きく羽ばたくようなその花はなるほど、確かに全てが北を向いていた。それがまるで列を成し、戦に出立する兵たちのように見えてきて私は視線を逸らした。
 きっと、考えが交わることなどないのだろう。いつまでも平行で、それは予めそうなっていたかのように一直線にそれぞれの道を歩く。それが武人である彼と、武人に非ず私の道。

 けれど、先程まで私の心を深く覆っていた感情は徐々に薄れつつあった。どうしてだろう、と自問してみる。
 結局私は、知りたかっただけなのだ。どうしてこんなにも彼らが戦に対し無理ばかりするのか。痛い思いばかりしているはずなのに穏やかに笑えるのか。何故、悲しみばかりの場所に身を投じようとしているのか。
 全ては叶えたい思いがあるから。それは木蓮のように決して全てが一致しているわけではないだろうけど、それぞれの願望がある。それが消えない限り、達成されない限り、彼らが戦うことをやめる日は来ないのだろうと。

「陸遜さま」
「はい」
「戻りましょう」
「……はい」
「明日から復帰なされるんですから、今日は早めにお休みになってください」
「え?」

 驚きに満ちた目が、こちらを向く。
 少しだけ緩んだ涙腺を隠すように、私は目を細め笑った。出来る限り、自然に、そして精一杯に。

「たくさん休んだ分、きっちり働いて呂蒙さまにも恩返ししないと。ですよ」
「名前殿、それでは」
「はい。明日から仕事に復帰されて、結構です」

 破顔。これ以上ないほど嬉しさに顔中を満たした彼の姿を見た。本当に嬉しいのだろう、今まで聞いたことのないくらいに元気いっぱいの声で彼は「ありがとうございます!」と言った。ああ、ここまで来るとなればもう、お手上げだ。無理は禁物ですよ、なんて釘を刺す気にもなれないほど、彼の喜びは想像以上だったのだ。

 木蓮が咲き誇る庭先を後にする。意気揚々と先を行く陸遜さまの背中を見つめた。『私もいつしか、この木蓮達のように凛と佇めたら、と』、そう語った陸遜さまの瞳は私からすればすでに凛然としていた。羨望さえ抱くほどに。強い人だと思った。それを、羨ましいと思うと同時に、私の中に見守っていたいという使命感のようなものを生んだ。
 強くいきる人たちが、もし傷ついたときには私が守ろう。ここで働き続ける毎日で、先の見えない不安を抱いていた心が今、完全に晴れ渡ったような気がする。

『成し遂げたい思いがあります。だから、私は戦うのです』

 ならば私は、彼を。彼らをどこまでも支えていこうと。少しだけ本気になって考えてみて、些細に思いついた、小さな決心を抱いた。