×長編 | ナノ
先日の一件から、見違えるほど陸遜さまは大人しくなった。相変わらず部屋の片隅に書簡が転がっていることはあっても、無理に起き上がろうとすることは皆無に近くなり、高まりつつあった彼への欺瞞が薄れつつあった。まだまだ予断を許さないかもしれないけれど、何となく彼はこれ以上周りを当惑させる行動を起こさないだろうと思った。何の根拠もない。ただの勘だ。 けれど一つ、確証を挙げるとすれば。
「陸遜さま、体調はいかがですか?」 「ええ、すっかり」
彼が私によく、笑いかけてくれるようになったことだろうか。
「朝餉は食べました?」 「はい」 「食欲は」 「良好だと思いますよ」 「それは何よりです」
すっかり習慣となった、私の来訪に陸遜さまは軽快な返事一つ迎え入れてくれた。上体を起こし、その膝元には何やら小難しそうな書物が置かれている。仕事関係のものではなさそうだった。
「今度はどのような本を?」 「からくりに関する物」 「からくり……」
それにしても、勤勉な方だと目をむく。会う度、毎度彼は何かしらの読書に耽っていることが多い。軍略を武器とする立場上、知識量は求められるのは当たり前のこと。
「策に使えるものが何かあれば、と」 「面白いですか?」 「なかなかですよ」 「……はあ」
しかし彼の知的好奇心はそれ以上のものだと思った。仕事上同じように書簡に目を通すことの多い私の心構えとは相反する。とてもじゃないけれど、彼の読んでいるものを読もうなんて気は起きない。見ただけで目眩を引き起こしそうだ。
「名前殿も読んでみますか?」
何でもないこと。けれど穏やかに私の名を紡ぐ陸遜さまに少しだけ心臓が痛んだ。 元々端整な顔立ちをされているのだ。そういう人に免疫のない私は、陸遜さまの些細な言動に調子を狂わせられることもあった。彼から視線を外し、手当て道具を片付ける。 今日も外はよく晴れていた。心なしか、寒さもまた一段と和らいだような気がする。外の空気を取り入れようと、窓を開けると陸遜さまが「あ、」と口を開いた。
「名前殿、そのままにしておいてくれませんか」 「え?」 「少し、外の空気を感じたいのです」 「……」
彼の言葉に、私は唸るような声を絞り出した。ん〜、と陸遜さまがここ最近置かれている境遇を汲んでみる。それからこの後待っているであろう自分の仕事の残量を量ってみる。あまり思い出したくないけど。その二つを兼ね合わせて、私は一つの提案を示した。
「少し、外に出ましょうか」 「えっ」 「もちろん私も同伴致しますけど、それでも良かったら」 「宜しいのですか?」 「少しだけなら」
幸い、ここ数日彼の体調は右上がりだ。あと数日もしない内に、今度こそ謹慎が解けるのではないかと思う。もちろん、何もなければの話だけど。多分、彼もそのことは重々承知しているはずだ。そんな中での提案に、陸遜さまは目を丸くして私を見ていた。
「あまり閉じこもってばかりいるのも、御心に良くないですから」 「はあ」 「以前の言葉と矛盾しているなって思ってらっしゃいます?」 「……ええ、まあ」 「何となく、今日はいいかなあって。天気も良いですし」 「……」 「今更かもしれませんけど私、気まぐれなんです」 「今、そう思ったところです」 「あはは」
うらうらとした気候が続く最中とはいえ、風に中てられることを考慮して体調を崩さないようにと厚手の上着を羽織るよう促す。それから私たちはゆったりとした足取りで、部屋を後にした。
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