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「馬鹿者」

 静かな雷が落ちた。
 それは時として、怒声を飛ばされるよりも怖いのだと知った。どこまでも静を滲ませる、呂蒙様の佇まいが、逆に恐ろしかった。普段温厚な人ほど怒ると怖い。それは紛れもない事実だと、身を持って感じた。
 
「お前ともあろう者が、どれほど人を心配させたのか。分からん奴ではないだろう」
「申し訳ありません」
「浅慮にも程があるぞ、陸遜」
「呂蒙さま、そろそろ」
「あれほど大人しくしていろと申したにも関わらず」
「……呂蒙さま」

 しかし病人に向かって長時間に渡る説教というのも、良くない。庇い立てするわけではないけれど、私はこれ以上白熱することがないようにと呂蒙さまを制した。少し低い、声色で。
 私の声に何か気まずさのようなものを感じ取ったのか、彼は押し黙り、空間には無言が広がる。

 倒れてしまった陸遜さまを、私一人ではどうにも出来ず結局一度城へ戻ることを余儀なくされた。幸運なことに、彼が倒れた辺りは人の往来も少なく、少しの時間であれば目を離しても大丈夫だろうと決断したのだ。尤も、城へ戻り、再びその場所へ向かうまでの間、私の胃は必要以上に圧迫感に苛まれていたけれど。
 助力を求めたところ丁度軍議を終えた呂蒙さまに出くわし、二人で陸遜さまの介抱へ向かい、そして今に至る。

 不幸中の幸いか、陸遜さまに目立った異変は見当たらなかった。再熱したかと肝を冷やしたけれど、手を宛がった額は平常で肩の傷が再び開いたりすることもなく。きっとここ数日の疲れから来るものだったのだろうと診断した。呂蒙さまはそんな私の言葉にほっと胸を撫で下ろした様子を見せた。
 それが一切合財、彼の遠慮を捨ててしまうきっかけになってしまったのだろう。陸遜さまが目を覚ました途端、呂蒙さまの小言は滝のように溢れ出た。それを陸遜さまはただただ大人しく聞いているだけ。きっと、自分が悪いという自覚はあるのだろう。
 いつもと打って変わって、書簡の一つも転がっていない清潔な室内。横になってひたすら聞き手に徹していた陸遜さまが、徐に口を開いた。

「……呂蒙殿、此度は本当に申し訳ありませんでした」

 ふわりと彼の髪が揺れ、頭を垂れると同時に聞こえた真摯な謝罪。私は目を見張った。そして、違う、と思った。

「……」
「私の軽率な行動が、脆弱な身体が、呂蒙殿に心痛賜ってしまったのは本当に」

 軽率なのは、私。彼はただ、自分の大事なものを探していただけで。それを渡すことを失念していた私の方こそ、責任を問われなければならない立場のはずだ。ぎゅっと、心臓を鷲掴みされたような居心地の悪さが、全身を襲った。
 陸遜さまの言葉を無言で受け止めていた呂蒙さまは、やがて長く、深い息を吐いた。

「何度も聞いた。しかし、陸遜」
「……はい」
「お前はそれを、心からの陳謝の言葉を名前に一度でも言ったか?」
「え、私?」

 どうも、彼は陸遜さまとの会話に私を引き出すことばかりしているような気がする。
 突拍子もなく自分の名前を出され、私はこの場にそぐわぬ間抜けな声を上げてしまった。二人の双眸が、こちらへ向けられる。一つは強く鋭く。もうひとつは、少し及び腰を思わせるような光。対照的な二つに、私は思わず苦笑してしまった。ちくちくと痛んでいた心臓が、少し軽くなる。

「私は、別に」
「そのようなことはない。お前がいなければこやつは今も路傍で横になっていただろうから」
「それは」

 私が彼に髪飾りを渡すのを忘れていなければ、こんなこと自体起きなかったかもしれないのだ。再び心苦しさに見舞われる。彼だけが怒られるのは、やはり筋が立っていない。
 何となく、陸遜さまへ目を移す。寝そべる彼の横には例の飾りが、私から返却されたものと元々あったものと、二つ並んで置かれていた。とても大事そうに。その恩恵を受けているせいか、室内の灯火にきらりと浅葱色が反応していた。

「とにかく、呂蒙さま。今日はもう遅いですし」
「……」
「また明日、様子を見にいらっしゃったらどうでしょう」
「しかしだな、」
「先程、従卒さまが呂蒙さまを探していましたし」

 私の言葉に呂蒙さまは、しまった、と焦りの声を上げた。恐らくまだ仕事が残っているのだろう。軍議が終わってから今まで、私に助力してくれていたのだ。恐れ多いのと、申し訳ないのと。色々な感情が複雑に絡み合う。

「遅くまで、すみません」
「名前は」
「私は少し、彼の様態を診てから帰ります」
「そうか」

 けれど呂蒙さまはそんな私の気後れも敏感に悟ってくれて、いつもの快活な笑みを向けてくれた。「あまり気にするな。俺はかまわん」と、労わり付きで。

*

「申し訳ありません」

 呂蒙さまが去った室内で、私は開口一番に謝罪し、頭を垂れた。え、と小さな反応が返ってくる。顔を上げることなく、私は続けた。

「決して、貴方だけのせいではないのに」
「……」
「元はといえば私が渡しそびれていたことが全ての原因です」
「いいえ、それはきっと違いますよ」
「ですが」
「起因でしたら、元は言えば私が落とさなければ良かった。それだけのことです」

 何よりも大切なものを。
 そういった彼の声は、今までに聞いたことのないくらいに優しさに溢れていた。本当に、大切なものなんだ。傍らに置かれている浅葱色のそれに目を移す。布地のような素材が、天辺の原鉱物質で纏められている、それだけの簡素な造り。
 それでも、よほど思い入れがあるのだろうか。それを時折大事に見つめる彼の視線はどこまでも穏やかだった。

「顔を上げてください」
「……」
「むしろ私はあなたに非礼を詫びねば」
「非礼?」
「先程の呂蒙殿の言葉……確かに私は真摯に看てくれたあなたをないがしろにしてばかりでした。どうか、無礼をお許しください」
「そんなこと」

 ゆっくりと視線を、上げていく。

「これを拾っていただいたことも、感謝の言葉が尽きません。本当にありがとうございました」
「……はあ」
「ですから、顔を上げてください。あなたは何も悪くなどないのですから」

 薄暗い室内。その中で彼が浮かべた笑みは、すうっと私の中に浸透していって。とても穏やかで、静かで。まるで戦に出ている人のものとはとても思えないような。
 例えるならば小春日和の今、柔らかな日差しを彷彿とさせるような、それだった。

「それに日頃勝気と専らの噂のあなたにそこまで汐らしくされると、落ち着きません」
「……その噂の出所はどこですか」
「大事な将が怪我をした時に冷遇されても困るので、黙秘します」

 にっこりという効果音でも付きそうな笑い方に、私は乾いた息を零すしか出来なかった。前言撤回。例えるなら真夏の強い日差し。なんともいえない苛立ちのようなものが沸き起こる。
 とはいえ何となく、噂の出所は想像出来た。
 まあ、その点は今度会った時にでも追求しよう。そう思いながら、自分の鞄に手を伸ばす。予め調合してあった薬の包を取り出した。

「とりあえず、寝る前と明朝。煎じて飲んでくださいね」
「……」
「……」
「……」
「……薬が苦手と専ら噂の陸遜さまには、苦行かもしれませんが」
「その噂の出所はどこですか」
「黙秘します」

 お返しといわんばかりに、私は返した。それはもう、にっこりとでも効果音が付きそうなくらい顔中に満面の笑みを浮かべて。