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 やられた。
 毎度毎度この部屋に足を踏み入れるたび、あんぐりと口を開けてしまう。けれど今回のは今まで以上に、致命的なものだった。相変わらず散らかった室内、足の踏み場もないその空間にぽっかりと浮かびあがる白色。その寝具に、人の姿はどこにもありはしなかった。

「……あざとい、か」

 誰に言うでもなく、呟く。
 今までのが全部、伏線。脱走などしないだろうとこちらに思い込ませるための策の一つだった。そう思うと同時に頭にがんと痛みが走った。こめかみを抑え、手にしていた鞄が音を立てて足元に落ちる。ずるりと、膝を着いてしまった。
 どうしてここまで。
 何となくで済ましてきた、責任感のようなものが少しずつ自分を蝕んでいた。まだ傷だって完璧に癒えたわけでない。無理をすれば再熱してしまう恐れだってあるし、何より体力が戻っていないはずだ。それを支えるのが私の仕事。それが、全部全部裏切られてしまったような感覚だった。自分の役不足を自覚させられる。
 だから戦は嫌いだ。戦う人のことなんて分からない。理解したくもない。安静と言ったはずなのに甘寧さまも陸遜さまもみんな、すぐに無茶ばかりする。

「本当にここで働くの、ちゃんと考えればよかった」

 どうしようもない今更感のある後悔が、襲う。
 何をしても、全力を尽くしてもこうして裏切られるくらいなら、と思った。けれど、緩み掛けた涙腺を叱咤し、首を振った。何を弱気になっているのか、と。今は姿を眩ました陸遜さまを探すことが先決だ。
 立ち上がり、私は見返る。無人の部屋に、乾いた感情を吐露したくなるのを必死に押し留めて、落としてしまった鞄を拾い上げた。
 するとその拍子にちゃりん、と小さな音が鳴るのを聞いた。

「あ」

 浅葱色のそれに、小さく声を上げた。以前私が働いていた薬舗で、偶然陸遜さまに会ったこと。その時に彼が落としたであろう髪飾り。一連の過去の出来事が頭の中に思い描かれる。
 そういえば渡すのをすっかり忘れてしまっていた。
 吸い寄せられるように、彼が寝ていたであろう寝具に視線を向ける。ここに訪れる際、彼が髪を結っていたことはなかった。病でそれどころでなかったからだろう。けど、どうしてだろう。それだけが理由ではないような気がした。

 傾きかけた日の光に反射して、浅葱色が輝く。手のひらに収まるそれを片手に意を決して、無人の部屋を後にした。

*

 それほど、彼という人物について詳しくなった覚えはない。故に、彼が行きそうな場所に思い当たる節がなかった。呂蒙さまを頼ろうか、いっそ彼が探したほうが効率がいいのではないか。むしろ彼の元に脱走したのではないか。そんな想定と共に呂蒙さまの執務室を訪ねると、生憎軍議に参加していて留守だと言われてしまった。
 つまり呂蒙さま以外の、彼に結びつく将も皆不在だということを悟る。出鼻をくじかれた。

「ん〜……」

 不在の人物を尋ねるほど彼は愚かでもないだろう。となると、ほかに行く場所は。俯き、考える。けれど思考が複雑化すればするほど、道が見つからなくなってしまっていた。とにかく、どうにかして見つけなければいつまでも気掛かりなだけだ。かといって大げさに騒いでしまえば彼に、余計な罰が与えられてしまうかもしれない。

 はた、と思考を止める。今、何を考えた? 罰を与えられるのは私ではないというのに、どうして余計な心配をしているのだろう。彼がどんな処遇にされても、関係がないというのに。ないはず、なのに。
 
「……やめよ、考えるの」

 変に深く追求するのは止そう。とにかく今は彼を見つけることが第一だ。どうしたらいいのだろう。途方にくれそうになったところで、手中を見据えた。この飾りの所有者は今どこで何をして、どんなことを思って、いるのだろう、と。
 ぎゅっと、落とさないように大事にそれを握り締める。そして、暮れ始めた夕日が差し込む廊下を力強く進んだ。
 確証はない。けれど、もしそうであるなら。そんな些細な思いつきだけを頼りに。

*

 見知った背中を、追いかける。どこまでも遠い存在のように思えたその後姿だけをただひたすら追い掛けた。

「……陸遜さま!」

 城の門を越え、城下をひたすらに目指していた。その過程で、目にした光景に自分でも驚くほど大きな声を上げていた。そういえば、彼の名前をこうして面と向かって呼んだのは初めてかもしれない。そんな、どうでもいいことを思いながら、彼の背に追いつこうと足を速める。
 きっと、こちらの姿を見るなり逃げ出すだろうと思っていたから、驚いた。ぴたりと足を止め、こちらを振り返った彼の姿に。

「……何でしょう」

 そして、その声があまりにも呑気さに包まれていたことにも。

「何でしょう、ではありません。まだ謹慎を解いた覚えはありません」
「はい」
「はい、でもありません。戻りましょう」
「すみません。でも、少しだけ時間をください」
「時間?」
「探し物があるのです」

 探し物、と反芻した言葉に呼応するように彼は自分の髪に手を伸ばした。少し長めの襟足を掴み、目を伏せる。
 酷く、寂しげな表情だと思った。

「あの」
「……はい」
「もしかして、探し物というのは」

 これのことですか、と続けて、片手を差し出す。その手中に、彼の瞳が瞠目した。次にその光が私を見据える。どうして、と無言で尋ねられたような気分になった。

「この間偶然、拾っていたんです」
「てっきり城下で落としたかと」
「ええ」
「……と、言うと?」
「あなたが先日訪れた薬舗に、偶然私も足を運んでいたんです。しかも同じ時間帯に」

 詳しい経緯を話すこともない。あの薬舗は馴染みがあって、女将さんからこれを託されたという、説得力のある情報を開示する必要も感じられなかった。ただ、彼はこれを探していて偶然私が拾ったということ。
 そして、これで彼の目的が消え無事に部屋へ戻ってくれるのではないかという願いだけで、会話を続けた。

「遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。今、お返し致します。ですから」
「……」
「ですからどうか、一緒に城へ戻」

 戻りましょう。
 そう告げようとした口が閉ざされる。まるで操り手のなくしたからくりのように、彼の体が崩れ落ちていったのだ。

「陸遜さま!」

 悲鳴のように、声を張り上げた。
 そんなことしたって、どうにもならないと分かっているくせに。走り寄り、地に膝を着けた陸遜さまの体を支えようと手を伸ばす。それよりも先に、彼の手がこちらへと伸びた。
 求めているものを、純粋に焦がれる何かに向けるような懇願。その手にはそんな、切ない感情が纏っているように見えた。私の手へと、彼のそれが重ねられる。すぐに手中にある飾りを求めているのだと気付くと、それを彼の手へと預けた。
 心の底から、安心したような笑みを見た。
 彼はこんな風に笑うのかと、一瞬見惚れてしまった。魅力的だったのだ。けれど、それを最後に彼は目を閉じ、がくりと脱力してしまったせいでそんな余韻など、掻き消されてしまった。
 抱き上げるには、あまりにも私は非力すぎた。

「……ありがとうございます、名前殿」

 その体をただ、支えるしか出来ない私の耳に弱々しい彼の言葉が、届いた。

 どうして、そんなことを言ったのか。どうして、こんなに辛い思いをしてまで探そうとしていたのか。欺けるために、幾日の我慢を越してまで捜し求めていたのか。どうしてこんなときに初めて、私の名前を呼ぶのか。

 何故、私がこんなにも泣き出したくなっているの。分からないことが多すぎて、ただただ苦しかった。