×長編 | ナノ
「聞いたよ、陸遜に付きっ切りだってな」
意地悪い笑みで、こちらの反応を楽しむような彼の雰囲気に私は盛大な溜息を吐いた。
「別に付きっ切りという訳でも。今日はまだ一度も行ってませんし」 「大変だねえ医官さまも」 「本心からそう思ってくださってますか」 「ああ、あいつの子守は人一倍労力がいりそうだしなあ」
子守、というにはあまりにも成長してしまった子供だ。それなのにあながち間違いでもないところが、おかしな話で。 彼が室内にありとあらゆる書簡を散りばめる光景は、あれから二度ほど目撃していた。その度に叱咤し、その度に不機嫌そうに顔を曇らせる陸遜さまの顔を見てきた。正直、御免被りたい。誰かを怒るというのは、想像以上に労苦の掛かることなのだと。人の上に立つはずの立場の彼が、どうして分かってくれないのか。理解しがたいことだった。
「凌統さま」 「ん?」 「どうしてああも強情なのでしょうか」 「陸遜?」 「はい」
書簡に目を通し、手馴れたように自分の筆跡を残す。次々にその執務をこなしながら、器用にも陸遜さまの様子を脳裏に思い描いてみた。 怪我の回復は順調だ。このままで行けばあと三日もしない内に謹慎も解かれるだろう。そのことは彼に伝えた。それにも関わらず、依然として彼が大人しく寝ている光景に出会ったことがない。いつも愚直に仕事に向き合っては、横になっていても可能な作業を常に探している。それは時に、必要以上に睡眠時間を奪うことだってあった。
「あいつ、元々じっとしてられないタチなんだっての」 「ここにいらっしゃる方は皆そうですね」 「そうそう。まあ、俺もあいつの立場だったら同じようにしてたかもね」 「嘘でしょう。絶対好機と言わんばかりに怠けるはずです」 「ばれた?」 「はい」
だって怪我をしているわけでもないのに、こうして私の執務室に来ているじゃないですか。提示した事実に、凌統さまは頬を掻き「参ったねえ」なんて笑ってみせた。 それを見て、思う。陸遜さまが床に伏せたとき、凌統さまと同じなんだと思っていた。自分に自信があるから、こんなにも無茶が出来るんだと。けれどそれは違った。陸遜さまには、余裕がなかった。いつも必死で、何かに向かい合っている。本当に真面目で、それ故に無理をしてしまうんだろう。 まあ、脱走とかそういう類のものがないだけ良い方だ。
「まっ、あいつは生憎そんな柄じゃねえし」 「でしょうね」 「何でもかんでも自分がやらなきゃなんないって、思ってんだよねー」 「性格ですか?」 「境遇っつうのかな」 「境遇?」 「あれ、知らない? あいつの家のこと」 「ええ」
ふうん、と相槌を打ってどこか思わせぶりな態度を見せる凌統さまの手には乗らない。間接的に陸遜さまの事情を知っても、余計な感情を抱くだけで。たとえそれが哀れみだとか同情を抱くような種類のものであっても、凡そ関係のないことなのだ。 必要なのは、彼がどうやったら大人しく寝てくれるのか。それが最重要事項だ。
「まあ、あいつにはそういう子がいいかもな」 「はい?」 「や、こっちの話ー」 「はあ。……まあ部屋から出ない分、まだ良いですけれど」 「……ねえ、名前ちゃん。あいつさ、結構あざといよ?」 「何ですか、それ」
こちらの問いに、凌統さまは器用に片目を瞑ってみせた。こうして、数多の女の人を誘惑しているのか。手馴れたものだなあと感心するもそこそこに、彼の返答を待つ。
「青二才なんて言われてるけど、あいつも軍師だからな」 「ですから、何ですかそれは」 「さて、いつも大人しくしている陸遜は今日も今日とて同じように部屋で横になっているかな、っつう話」
凌統さまの声に、当たり前ですよと答えようとした口が、閉ざされる。
その保証は、どこにもない。 ましてやいつも朝に一度訪れていた彼の部屋に、今日は一度も踏み入れていないことを思い出した。まさかとは思うけれど。どことなく伝う、嫌な予感に立ち上がった。ほとんど無意識の内に愛用している自分の鞄を掴み上げる。
「凌統さま、すみません。ちょっと席外します」 「ん〜? 俺もそろそろ自分とこ戻ろう思ってたから丁度いいや」 「そうですか。申し訳ありません」
頭を下げ、足早に室内から廊下へ通じる扉へと向かった。その途中で、不意に気に留まったことがあって、振り返る。私を送り出そうとしてくれていた凌統さまが不思議そうに首を傾げた。
「何?」 「凌統さま、何か知っていますか?」 「何を?」 「陸遜さまがあんなにも意地を張る理由」 「言ったじゃん。先の戦で失策したことと家のことと」 「……」 「あとは薬が大の苦手だっつーことくらいかな」
最後のそれ、結構重要なことだと思いますけど。
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