×長編 | ナノ




「おぬしがなにも言わぬとは意外だった」

 茶の入った湯のみを傾け、呂蒙さまは言った。加えて、「旨い」との高評価も頂きました。礼もそこそこに、話題の正体を掴もうと口を開く。

「陸遜さまのことですか?」
「ああ」

 もっとこう、噛み付くかと思った。
 呂蒙さまの表現に、眉をしかめる。噛み付くだなんて、まるで私が動物みたいじゃないか。微かな憤りを飲み込むように、手にしていた湯のみを一気に傾けた。苦々しい茶の味がする。旨い、だろうか。これ。ちょっと渋い気がする。

「なんだか改めて考えてみると、私が口を挟むことでもないと思いましたので。必要なことだけを申し上げました」
「そうか」
「それにしても意外、だなんて。そこまでお転婆に見えますか私」
「ああ、甘寧や凌統らから時折お前の噂を耳にすることがあってな」
「煩いとか喧しいとか、さぞかし酷評でしょう」
「まあ、なんだ。その」
「それか可愛げも愛想の欠片もないとか、ですかね」
「……すまんが否定できん」
「いえ、気にしてません」

 彼らに対する対応は、そう評価されてもおかしくないものだったから。
 湯呑みを傍らに、机上に散らばった書簡を纏めていく。従来通りの仕事もまずまずにこなした今、陸遜さまの元へ訪れるつもりだった。身支度し始めた私を見かねて呂蒙さまが「陸遜のところへ行くのか」と尋ねてきた。

「ええ」
「足労掛けてすまんな。本来であればこちらへ移すのが当を得ているのだが」
「いえ、私は。それに、本人が一番落ち着ける場所でなければ療養の意味もないでしょう」
「そうか」

 それでも彼には彼なりの、負い目のようなものがあったのだろうか。支度を終えたと同時に「同行しよう」と提案してくれた。
 正直、ありがたい話だ。何というか、気まずかったからだ。先日のことを思い起こす。いくら診察のためとはいえ、強引に異性の肌に触れるなど、どうかしていた。心配だったからなどという理由は、正当さに欠ける。だからといってあの時の対応は、決して間違っていなかったと思う。自分が正しいと主張するつもりはないけれど。
 とにかく初対面からして無礼ばかりを働いてしまった陸遜さまに対し、どういう対応をしたらいいのか分からなかったのだ。医官と患者。そうなる前だ。どういう顔色で彼の私室を訪れたらいいのか。
 それだけが小さなわだかまりになっていたのだ。

「ああ、それはちょっと、助かりました」
「助かった?」
「……ええと」
「さては陸遜の奴が何か無礼でも働いたか」
「や、違います! 私が勝手に負い目を感じているだけでして」
「負い目とな」
「ええと、初対面から礼節の欠片もない女だと思われたことでしょうか」
「ふむ」

 もちろん、そこに深い意味などない。
 ただ何も知らないうちから負の印象を持たれるのは、人間誰でも避けたいことだろう。そのことを説明しようにも、上手く言葉が見つからなかった。けれど呂蒙さまは鋭敏にそのことを理解してくれたようだ。大きく頷き、まあ、とどこか感得したような声をあげた。
 それをきっかけに立ち上がる。ついで、呂蒙さまも後に従った。空になった湯のみを受け取ろうと手を差し出すと、穏やかに笑って「馳走になったな」と言われた。
 うーん、素敵なひとだ。素直にそんな感想を抱く。

*

 室内に足を踏み入れて、唖然とした。
 いや、まだ姿を眩ますなどという無謀を発揮しないだけマシなのだろう。きっとこれが他の将であれば脱走の一つでもしているかもしれない。相手がまだ、知将と目下評判の彼でよかったと喜ぶべきだ。
 けれどこれは、ない。

「安静になさってくださいと仰ったつもりですが」

 出来るだけ、平静さを保った声で告げる。その返答は実に白々しいものだった。

「ですからこうしてちゃんと寝ているでしょう」

 室内に散ばる、書簡の束。私と対照的に、遅れて入室した呂蒙さまは苦笑に顔を歪めていた。陸遜さまの性格を知る彼にとって、この状態はきっと想定内だったのだろう。
 一日と経たずして、清潔に保たれていた室内は足の踏み場もないほどの書簡、竹簡、さまざまな地形図で埋め尽くされていたのだ。呆れて、物も言えない。同時に彼の勤勉さをまざまざと印象付けられた。
 本当に、どこまでこのお方は。

「そんなのは寝ているに入りません」

 彼が手にしていた書状らしきものを奪い取る。不平に満ちた顔が、こちらを見た。けれど引くわけにはいかないのだ。

「退屈です」
「療養というのはそういうものです」
「小言の多い方ですね」
「医官というのは、そういうものです」

 辟易を吐き零し、散ばったものを掻き集める。一体どこからこんなにも彼の元へ仕事が舞い降りてくるのだろう。それ程多忙の身ということか。ならば、尚更だ。

「お気持ちは察しますが、今は自粛なさってください」
「片付けなければならないことがあるんですよ」
「なればこそ、でしょう」

 それに貴方の分の責務は、呂蒙さまにお任せしたらどうですか。
 身勝手な提案に、乾いた笑いが背後で起こった。先日彼との会話に私を引き出してきた些細な、仕返しのようなものでもあった。
 ところが、陸遜さまの顔は晴れない。むしろ、不本意だと言わんばかりの表情へと変わる。
 渋々といった様子で横たわる彼の髪が、揺れる。と、陸遜さまは何か思い出したのか、不意に考え込むように眉を寄せた。それから静かに「ところで」、と私へ向かって口を開く。それは至極、言いづらそうな口調だった。

「はい」
「私の、髪」
「髪? 何でしょう?」
「……いえ、やはり、何でもありません」

 あれ、と一つ、奇妙な違和感を覚えた。

「……」
「と、にかく。寝てください。それから布を替えますので肩を」

 どうしてか分からないけれどふと、昨夜呂蒙さまが言ったことを思い出した。「頼ることをしない」そう言った呂蒙さまの顔はどこか寂しさを帯びていた。

 きっと陸遜さまという人柄は、どこまでも人を心配させるのが上手で、人に甘えるのがどこまでも下手なのだろう。それは数少ない機会で得た、何の感情も付随しない、彼への印象だった。
 結局何を聞きたかったのか、それを問い質すこともせず私は彼の肩の治療に専念した。言いたくないことなら言わなければいい。そう思ったことを、後になって少しだけ後悔した。