×長編 | ナノ




 うわ、という声をきっかけに意識を浮上した。ゆっくりと目を開く。無意識に瞼を擦る。
 ここに私はどれくらいいたのだろうか。夜の帳の中で陸遜さまの額に手を宛がって安心したことは覚えている。それからどうしたっけ。そもそもここはどこだろうか。いまは朝なのか。
 覚束ない意識の中で、ぐるぐると色々な思考が混ざっていた。そんな中、第三者の声が響く。

「何だ、名前。結局ここに居たのか」

 呂蒙さまだった。どうしてここにいるのか、未だ理解力の落ちた思考回路の中で、ただただ彼の顔を見上げるだけ。伏していた顔を上げ、のそのそと動く。傍らで誰か、別の人が動いたのを確認した。ぼんやりとした視界で、その人物を捕らえる。
 誰だったっけ。すぐに名前が思い出せない。というか、ここはどこだっけ。

「名前?」
「ん〜……呂蒙さま」
「呆けてるのか?」
「朝、弱くて……ですねえ」
「無理もないな。昨日はご苦労だった」
「き、のう?」

 昨日、と思い立って、徐々に意識は覚醒し始める。
 朝一番呂蒙さまに遭遇し、部下が寝込んでしまったと連れてこられた部屋、今いる部屋がまさにその場所だった。それから一日近く看病に徹し、ようやく落ち着きを取り戻したと同時に、私は。

(私は……?)

 冷たい汗が伝う。本格的に覚醒した脳が、状況の把握をし始めた。しなくていい、そんな余計なこと。そう思うも、時既に遅し。傍らで上体を起こす彼の姿を、察知してしまったのだ。

「……わ、わー」

 会って間もない男の人の部屋で、看病と言えど、夜を明かしてしまった。そのことを理解してしまった。

「呂蒙、さま」
「何だ?」
「もう私、お嫁行けませんか?」
「寝ぼけているのか」
「でも介抱だったら例外ですよね。例外例外」
「まあ、そうかもしれんな。事実に遜色ないが」
「うっ」

 痛いところを突かれた。心臓を抑え、込み上げてくる何ともやるせない気持ちを落ち着かせる。本当だったらあの後様子を見るだけで颯爽とこの部屋を出て行くつもりだったのに。眠ってしまったのだ。
 後悔と少しの眠たさを噛み締めながらも、上体を起こし未だ硬直したままの陸遜さまへと視線を移した。

「と、言いますか」
「えっ、わっ」
「何で起き上がってるんですか!」

 陸遜さまの顔が仄かに赤みを帯びている。きっと薬の効能が切れたのだろう。まだまだ油断出来ない状態なのだから、起き上がってはだめだと、彼の傷を負っていない方の肩を掴み強く押した。

「いっ、いきなり何を」
「良いから、寝ててください。怪我人なんですから!」
「怪我、って」

 無理やり横にさせられたことに不満があったのか、彼の表情は驚きと共に困惑の色を強くした。初対面で馴れ馴れしく肩を触れる女なんて、私だって嫌だ。けれどこちらだって患者を前に譲れないものがある。身を捩り、起き上がろうとする彼の体を抑え、無理に寝かせる。
 未だ何か言いたげに、瞳が揺れた。そのことに見ない振りを通して、彼の額に手を宛がう。小さく声を抵抗の声が上がった。

「熱、引いてますね。……良かった」
「あ、あの」
「落ち着け陸遜。彼女はお前の手当てをしてくれていたのだぞ」
「……手、当て?」
「それも丸一日近くだ」
「……」

 何か考え込むように、陸遜さまは俯いた。
 こちらにとっては、好都合。おとなしくなった彼の肩に触れ、手当てを施した箇所を診る。何か言いたげな彼を差し置いて、とても無礼な行動だったかもしれない。けれど上官である呂蒙さまが何にも言わないことで、陸遜さまは全てを悟ったようだ。瞬間に状況を理解し、どこか嫌々な雰囲気が漂いつつもじっとしてくれた。やっぱり思ったとおり、彼はとても理知的な方だ。

「うん、もう大丈夫。膿んでいたことで腫れていた箇所も、熱が引いています」
「そうか。何よりだ」
「でも、呂蒙さま」
「ああ、承知している」

 話の流れが掴めない。そんな顔をした陸遜さまへ、呂蒙さまが向き直る。陸遜、と彼の名前を呼んだ。非常に申し訳ないといった声色、医官である私が伝えなければいけなかったはずのことを、今彼は代わって紡ごうとしてくれているのだ。本来私が申し訳なく思うことだというのに、どこまでも彼は優しいお人柄だ。 

「すまないが数日はここで安静にしていてくれ」
「……それは」
「こやつ直々の判断だ。御殿医にも殿にも了承は得ている」
「ですが」
「陸遜、文句は聞くが拒否権は認めんぞ」

 しかし改めて考えてみると、これは私が口を出すことでもないと思った。
 意地というか、それぞれの武人としての、武将としての、意思がぶつあかり合っているのだ。自分の出る幕ではない。ただ無言を保ったまま、彼の肩に布を巻く作業に没頭した。肩を覆っていく、無垢な白色が眩しい。

「呂蒙殿、私には寝ている暇など……!」
「今お前はなすべきことは療養だ。ゆっくり休養を取り、傷を癒す。執務はそれからでも遅くない」
「……」
「お前の気持ちも分かる。先の戦での不面目を拭いたいのもな。しかしそれで、お前はまた彼女に迷惑を掛けることになるのだぞ」

 そこで私のことを引き合いに出しますか。言葉選びに、戦における彼の才腕を垣間見たような気がした。失笑を零しながら一度診察の手を止め、ゆっくりと音を立てずに立ち上がった。それから籠もり切った室内の空気を一掃するように窓に手を掛ける。

「とにかく、今は安静第一とのことだ」
「……いつまでですか」
「それは俺の仕事ではないな」

 外はこれ以上ないくらいの快晴が広がっていた。春が訪れているといっても、まだまだ朝晩は冷え込むこの季節。空気の入れ替えをしたら、すぐに窓を閉めるつもりだった。けれど陸遜さまの鋭い眼差しが、射抜くようにこちらへ向けられて。閉ざすタイミングを失ってしまった。

「私はいつまでここに居れば宜しいのですか」

 それは自業自得だというのに。至極、不服そうな顔をされて、困ったと大きく息を吐いた。呆れたり、疲れだったり、困惑だったり、逃げだったり。そこに付帯する意味合いは多くあった。
 けれど一番は純粋に、感心していた。

「それを判断するのは私ですけれど、決定させるのはご自身です」
「……」
「くれぐれもご自愛なさってください。そうすれば直に謹慎も解けますでしょう」

 生死の淵を彷徨ったにも関わらず、彼はまた戦に向けてその身を投じようとしている。真っ直ぐな意思。それを反映したかのような強い光を帯びた瞳。何もかもが、私にはないものだと思った。

 失礼します、と一礼し、室内を後にした。彼の様子を付きっ切りで診ているというわけにもいかなかった。生憎それだけが仕事ではない。慌しく廊下を駆け抜け、一日ぶりの執務室を目指した。