×長編 | ナノ




 それから時は容赦なく進んだ。
 相変わらず苦しげな陸遜さまの呼吸以外、何も聞こえない室内。時折自分の独り言だけが浮かび上がって、すぐに消える。
 呂蒙さまは診療が始まってからすぐに部下に呼ばれ退室していた。きっと、彼の元にはおびただしい数の仕事が舞い込んでいるのだろう。それでも腑に落ちない顔を浮かべた彼に対し、私は「任せてください」と笑って、送り出した。呂蒙さまとしてはとことん付き添ってくれる算段だったのだろう。
 そのことに感謝しつつも、手を止めることはしない。皮膚をじっと見つめる。根気の要る作業だった。少しの見落としも許されない、慎重さが問われるものだった。

 どれくらいの時間が、経ったのだろうか。朝の眩しさに明るかった室内は、刻一刻と暗闇に支配されようとしていた。日が落ちる前に、視界が悪くなる前に打開策が欲しい。焦燥が身を掻き立てる。せめて何の毒だったか、それだけでも分かれば。

「う、」

 その時だった。今まで不規則に呼吸するだけだった陸遜さまがここに来て初めて、搾り出すような声を上げたのだ。

「……陸遜さま?」

 呼びかけてみる。ぴくりと、彼の腕が微かに動いた。寄せられた眉間が、苦しさを物語っていた。毒、そして熱のせいだろう。
 ゆっくり、その手が、動く。そしてその指先は、部屋の片隅を指差した。何かを、主張しているようだった。目を離すことに一瞬躊躇したが、私は彼の指先に従うように部屋の隅に置かれた彼の荷物に手を掛けた。

「……矢」

 そこにあったものが、活路を開いた。
 一本の折れた矢が横たわっていたのだ。恐らく彼の皮膚を傷付けた矢そのものに間違いないだろう。急いでそれを手に取り、鏃の部分に布を宛がう。血に混じって別のものがあると一目で確認出来た。毒、そのものがまだ残っている。そして鼻を少し近づけると微かに潮の香りがした。潮、海辺。その単語に当て嵌まるものから、私は特定に至った。

*

「サソリか」
「ええ、水辺に生息する種の中で毒を持つものがいると聞いたことがあります。処方も効いていますし、恐らく間違いないかと」

 ふむ、と呂蒙さまは考え込むように顎に手を添えた。傍らでは陸遜さまが未だ目を閉じたまま。ただし、先のように苦しげな呼吸は聞こえなくなっていた。
 あれから、すぐに特定した毒に対する解毒剤、それから解熱効果のあるものも加えた処方を煎じた。
 二時間としない内に彼の症状は沈静化を見せ、今では熱による疲れのせいか深い眠りに就いているだけのようだ。そこへ仕事を片付けた呂蒙さまが再び姿を見せ、今に至る。

「陸遜さまがご自分を傷つけた矢を持ち帰っていなければ、危なかったかもしれません」
「そうか」
「理知的な方なのですね」
「しかし呆れているだろう」
「あ、見抜かれちゃいましたか」
「顔がそう言っている」
「本当に、無茶なさる方ばかりです」

 孫呉の、いや、将というのは皆そうなのですか。
 私の問いに、呂蒙さまは困ったように笑った。男の人はみんなそうだ。困ったとき、笑っていれば済むとでも。そう言おうとして止めた。
 布の上に寝かされた矢の残骸を見つめる。それでも甘寧さまのように猪突猛進というわけではなさそうだ。聞けば知略に富んでいるとか。そんな方がまたどうしてこんな事態を招いたのか、分からなかった。

「こいつは少し、不器用でな」

 呂蒙さまは少しだけ笑って、少しだけ寂しそうに言った。

「不器用で命を落とすところでしたけど」
「うっ……まあ、なんだ。人に頼るということをあまりせん」
「弧将とでも?」
「いや、それとも違う。何だ、人一倍責任力があってな」
「それは理由になりませんよ」
「今回のことを、気負っておった」

 甘寧さまの言葉が脳裏に思い返される。

『前の戦、指揮の大半はあいつが執ってたからな。失策じゃなかったが、まあまあ犠牲が付いちまった』

 そういえば、今回の指揮を執っていたのが彼だったとかなんとか。医官と患者の前ではそんな情報はどうだっていいことなのだけど、将たる彼にとっては重要な責任問題だったのだろう。加えて、真面目で勤勉とくれば必要以上に自分を追い込んでいたのも容易に想像出来る。
 けれどそれと、傷を放っておいていいのとでは全くの別問題だ。

「とにかく、傷が癒えるまで謹慎。兵事はもちろん、日常業務もです。完全に蟄居させてください」
「俺は構わんが、目を覚ましたこいつが従うかどうか」
「ならば典医さまに報告させて頂きます。孫権さまから彼へ詔を出して頂くよう進言してください、と」
「……」
「それが嫌でしたら、大人しくしていてください、と。目を覚ましたら、彼に伝えるつもりです」
「なんとも抜け目のない……」
「どうとでも」

 診ていた方を死なすわけには行きませんから。強く言い放った私の態度に、呂蒙さまは降参と言わんばかりに頬を掻き、上に通してくると告げたまま退室していった。

 一人頷き、周囲に広げていた道具を掻き集めた。その乱雑さがなんとも自分の鷹揚な性格を反映しているようで、可笑しかった。それらを掴み、次々と鞄に放り込んでいく。
 一通り片付くと薬の匂いが充満した室内の空気を一変させるために、窓を開け放ち、一つ伸びをした。ここを訪れてから、半日以上、いや一日近くが経過していた。さすがに体のあちこちが疲れを訴え始めている。折角先日骨を伸ばしたのに、また疲れが溜まってしまったじゃないか。悔しそうに陸遜さまの寝顔を睨みつけた。

「ほんっと、穏やかそうに寝てて。戦う人だなんて思えないくらい」

 改めて見てみると、先日も思ったことだけれど、彼は武人とは思えないほど均整な顔立ちをしていた。これは世の女性が放っておかないだろう。そう思ってから、引く手数多だと主張した甘寧さまのことを思い出す。彼とは少し系統が違う。分類するなら、凌統さまみたいな感じかな。甘い顔立ち、さぞかし、自分に自信があるのだろう。だから、こんなにも無茶が出来るんだ。そうに違いない。短絡的な思考回路。すぐに自分が眠気に襲われていることを理解した。

 陸遜さまの寝顔につられちゃったのかな。独り言を零した。夜の帳に浮かび上がる彼の顔に、手を宛がい、熱が引いたことを確かめる。それから、吸い寄せられるように彼の眠る寝具の端に顔を寄せ、目を閉じた。久しぶりに感じた暗闇がとても、心地よかった。