×長編 | ナノ




 再び呂蒙さまに遭遇したとき、彼の顔色は蒼白そのものだった。

「ど、どうしたんですか」
「すまない名前、俺と共に来てくれないか」

 官人へ、朝一番に服用するようにと薬を届けに行った帰りのことだった。廊下で遭遇して、彼は開口一番捲くし立てた。「ああ、ここに居ったのか。先程お前の部屋へ行ったのだが留守でな。ここで会えて何よりだ」、と。珍しく冷静さを失くした彼の様子に、ただならぬ状況を感じる。
 今日任されていた仕事に、大きなものはない。事情は置いといて、すぐに首肯し彼の後に続いたのだった。

*

 通された部屋で、瞠目した。敷かれた寝具に横たわる人の顔色が、先程の呂蒙さまよりも悪いものだったこと、そしてその人物に見覚えがあることに、だ。

「この方は」
「部下の陸遜だ」

 やはり、昨日薬舗に居た彼は『陸遜』だったのか。妙な納得と共に彼がどうしてこんなに苦しそうな表情を浮かべ、床に臥せているのか分からなかった。少し落ち着いて考えればすぐに分かることだったはずなのに。それほど混乱していたのだ。
 呂蒙さまが受け取った薬の使い道、先日薬舗で会ったこと。全てが、一本の結論に繋がる。それを改めて言葉にされないと分からないほど、理解力は落ちていた。

「戦で怪我をした部下がいると言っただろう?」
「……は、い」
「朝になって急に悪化してしまった」
「急に?」
「ああ。先の戦で流れ矢が肩に当たっていてな。当人は大したことないと笑っていたから、侮っていた」
「矢、ですか」
「ああ」
「……まずいかもしれません」

 呂蒙さまが私の発言で、さらに顔色を悪くしてしまった。しまった、と口を噤む。懇意にしている相手に対して、言うべきことではなかった。大馬鹿、と自分を叱咤すべく両頬を軽く叩く。それから呂蒙さまに向かって、大丈夫です、と強く言い放った。

「とにかく、診ます。すみません、呂蒙さま。私の部屋に行って道具一式取って来てもらえませんか? 机の上に置いてあるのですぐに分かると思います」
「承知した」

 すぐに走り去る呂蒙さまの背中を見送った後で、彼に向かい合った。肩、と呂蒙さまが言っていた通り、彼の夜着の間からは白い布が見え隠れしている。失礼します、と一つ侘びを入れてからその衣をずらす。肌蹴た先を見て、絶句した。

「……明らかに、大丈夫じゃないですよこれ」

 独り言を零す。素人が適当に巻いただけの、なんとも簡素な手当て。しかも、折角の薬も効いていないような塗り方。どうしてこうなるまで放っておいたのか、理解出来ない。絶対、痛いはずだ。そのせいで、発熱してしまったのだろう。苦しげに呼吸する陸遜さまの顔を見て、呆れた。武人とはみんなこうなのか。本当に、自業自得だ。
 けれど、放っておくなんてことは出来ない。

 すばやく汲んできた水で手を洗い、彼の額に手を宛がう。異常なほどに、熱かった。それから口を強制的に開き、舌を覗き込む。普通であれば健康的な桃色をしているはずのそれが、どことなく青かった。それに加えて他にも異変が見られた。

「こんなになるまで放っておくなんて、呆れた人です。初対面で大変失礼ですけど」

 意識がないのか、彼の反応はない。それを良いことに失礼すぎる発言を落とした。
 流れ矢が当たった、と聞いた時嫌な予感が全身を駆け巡った。そしてそれはどうやら当たってしまったようだ。じくじくと膿む患部を見つめ、その状態を見る。傷を負っていない皮膚にもかすかな爛れが見えて、ああ、と一つ息を吐いた。恐らく毒のようなものが、矢には付着していたのだ。

「名前、これで良いか」
「ああ、呂蒙さま。はい、ありがとうございます」

 一人の――意識のない人を数えると二人だけど――時間があったせいか、私は大分落ち着きを取り戻していた。
 程なくして私の使っている治療用具が詰め込まれた鞄を持った呂蒙さまが現れた。顔を見て、一発で何を言いたいのか分かった。顔に書いてある。「陸遜は大丈夫なのか」。そこにも、彼の優しさとやらが垣間見えた。

「はっきり言いますと、まあ、危なかったですね」
「なっ」
「あと一日この状態放っておいてたら命だってどうなっていたか」
「それほどに重症なのか!」
「多分、本人も気付かなかったでしょうけど。これ、毒の気配がします」
「ど」

 毒、だと?
 驚愕の目が、こちらへと注がれる。きっと素人の目からすれば受けた当時は、何の変哲もない傷だったのだろう。一日、二日と経ってみてその容貌は驚く変化をしたに違いない。遅効性の毒、とでもいうべきか。

「して、治るのか?」
「大丈夫です。大丈夫……、あとは、まあ」
「……あとは?」
「本人の頑張り次第かと」

 呂蒙さまから鞄を受け取る。その中を漁りながら言った私の言葉に、呂蒙さまは悔しそうに顔を歪めた。「ふがいない。俺が気付いていれば」、と。顔に出ている。見下ろした先で、苦しそうに呼吸する陸遜さまの顔を見た。こんなに思ってくれる上官がいるんだから、死んだりしないよね。そんな無責任な願いを投げ掛ける。
 大体、私はこの人となりを知らない。だから、どうしたって感情的になれないのだ。甘寧さまや凌統さまのように優しく治療することも、多分難しいだろう。最大の自業自得は、陸遜さま自身なのだから。

 大体の毒は、その大元から血清が取れる。それを特定するにはあまりにも時間が経過してしまっている。先生から譲り受けた薬の中で、一つの包みを取り出した。

「まあ、頑張るのは私もなんですけど」

 幅広い毒の範囲を特定するためのもの。あらゆる血清を少しずつ調合したもので、一つ一つの反応を見て毒の大元を特定するという、根気と時間の要る療法だった。根気はまあ、自信がある。あとは残された時間が問題だった。こちらの頑張りがあっても、陸遜さまの体力が残っていなかったら意味がない。一か八か、大きな賭けだった。けれど、これしか道はない。

「名前」
「すみません、もうひとつお願いをしても宜しいでしょうか」
「ああ、何だ」
「これから一日半程ここで過ごしますので、仕事に戻れないことを典医さまに」
「……それは」
「お願いします」

 頭を下げる。対し、呂蒙さまは慌てたように制した。顔を上げてくれ、なんてまるで情けない声で言われてしまって、少しおかしく思った。こんな女にそんな遠慮して、本当に優しい方ですね。彼に従う部下は幸せでしょう。
 苦しげな声がした。振り返って、手元にあった包みを開く。その手が微かに震えていたことに、私は気付かぬ振りをした。