×長編 | ナノ
出会いは、あまりにも突然のことだった。 その日は多忙な毎日から逃げるように休暇を取り、城下へと繰り出していた。 新しく出来た甘味屋を訪れ、大好きな菓子を食べる。目新しいものが並ぶ雑貨屋を訪れ鮮やかな髪飾りに目を輝かせたり、往々に過ぎる人たちを露店を見る傍らで眺めたり。日頃無意識に溜まっていた疲れを晴らすべく、好きなことを好きなだけ出来る自由。それはとても充実した時間だった。 それでも職業病というのは恐ろしい。この城下町周遊の短い旅の最終地を目の前にして、人知れず苦笑した。元々働いていた薬舗の看板を前に、少し照れくさい気持ちを抑えながらその下を潜る。
つん、と鼻を擽る薬の香りがして、自分の執務室を彷彿とさせた。新鮮な街とは一線を引いた空間、少し薄暗い室内が薬舗独特の雰囲気を作り出していた。思えばここのところ忙しかったせいで、久しぶりの帰郷だった。無意識に身を弾ませながら、大きく息を吸い込んだ。
「こんにちはー」
室内の奥で薬草と睨み合いを続けていた女性が顔を上げる。途端、花が咲いたような笑顔を向けられた。
「名前じゃないか!」 「女将さん、お久しぶりです」
一礼し、笑う。自然と笑顔になれる空間だった。幼くして身寄りのなくなってしまった私を雇ってくれた、女将さんと。
「先生はどちらに?」 「相変わらず蔵に籠もりっ放しだよ」 「あはは、変わらずで何よりです」
姿が見えないにもかかわらず、頬が無意識に緩んだ。先生と慕う、女将さんの夫はとても熱心な学徒で滅多なことでは店に姿を見せない。私がここで働いている当時から自分専用の蔵に閉じこもり、薬の論究を続ける毎日を送っている。新しい薬の調合だとか、権威を得るための研究だとか。時間を共にするとそのことばかり話す。専ら医薬を偏執的に愛している人だった。 そのせいか、実質この薬舗を切り盛りするのは女将さんだった。「稀代の発見だとかなんとか、そんなんばかり追いかけちゃ明日の飯も食いっぱぐれちゃうってのにねえ」、文句を零しつつ、何だかんだで支えあう夫婦の姿は憧れでもあったりする。 変わっていない。そのことに少し、安堵した。
「悪いねえ、今客が来てて手が離せないんだ」 「あ、いえ、お構いなく」 「もうちょっと待ってておくれよ」
薬舗には私以外にも来客があったようだ。日の掛けはじめたこの時間帯で来客は珍しいな、と思った。生憎、薄暗い室内でその姿は確認出来ない。室内のどこかで待機しているのだろうか。木棚が立ち並ぶ店の中を歩き回りながら、様々な薬に目を留めていく。そのどれもが、知らないものばかりだ。調合表を見ても、ああこういう組み合わせもあるのかなんて目から鱗が落ちる。 やっぱり先生はすごいなあ、なんて感心しながら進めていた足が、ぴたりと止まった。人がいたのだ。先程女将さんが言っていた来客とは、十中八九、彼のことだろう。
隠れる必要もないのに、一歩分、身を引いた。 何となく、恥ずかしくなったのだ。見せ棚に飾られた薬草を見つめる横顔に視線が吸い寄せられてしまった。あまりにも、整った顔立ちだったから。 鮮やかな朱色の着物を纏ったその姿が、凛とした存在感を放っていた。そこに好意的な感情はなく、ただ物珍しさに中てられただけだ。好青年。そんな印象の人でも薬舗に用事などあるのか。そのときはそう思うだけだった。
「お待たせしたね」
女将さんの声で、彼が店の奥へと姿を消した。何言か交わされる会話が、棚越しにくぐもった声で届く。けれど何を話しているかは分からなかった。 やがて足音と共に会話が消え、彼が帰ったのだと分かると止めていた足を再び動かした。
「ああ、名前ちゃん。すまないね、待たせて」 「いえ」 「いつもならこんな時間に客なんてめったに来ないんだけどねえ」 「確かに」 「何でも軍の方だとか」 「え?」
女将さんの言葉に耳を疑った。軍、という単語にここらで当て嵌まるものは一つしかない。私が身を置くあの場所のことだ。それにしては、知らない人だった。典医さまや同僚の医官であれば大抵把握しているけれど、彼の横顔はそのどれにも当て嵌まらなかった。もちろん、軍全体の人の顔を知っているわけではないから知らないひとがいても当たり前のことだけど。
「……普通なら城下まで薬買いに来るのは典医さまだけだと思うけど」 「まあ、それぞれ人には事情があるからねえ」
そうですね、とその話題に終止符を打って少しの沈黙が流れる。それから女将さんが軽く両手を叩いて立ち上がった。
「さて、今日はもう店じまいしようかね」 「え?」 「折角名前ちゃんが来たんだから、夕餉は豪勢にしなきゃ」 「え、でも」 「もちろん、食べていくだろ? あの人も喜ぶだろうしさ」
そう言われて、先生の喜ぶ姿を想像してみた。けれどあまりにも似合わなさ過ぎて、噴き出してしまった。先生はいつも威厳のある顔立ちで、滅多に笑うことをしない。だからだと思う。言った張本人である女将さんもすぐに「それはないか」とくしゃりと顔を歪ませて笑った。 それから店じまいのために玄関先へと向かった女将さんの背中を見送ると、ふと足元に何かが落ちていることに気付いた。
「あれ?」
それを拾い上げてみる。 髪留めのようだった。手のひらに収まるほどの小ささのそれは、着飾る女性には不似合いのもの。恐らく男性用のものだろう。と、どこかで見たことのあるものだと思った矢先、あっと小さく声を上げた。横顔。先程までここにいた横顔を思い出したのだ。そしてその耳元に付けられていた青い飾り物の存在を、はっきりと描き出す。確かに、彼の耳元にはこれと似た色の飾りが揺れていた。
「どうしたんだい、名前ちゃん」 「これ」 「ん〜? ああ、こりゃあ陸遜さんのだね」 「え、りくそん?」 「さっきのお客さんの名前だよ」 「うそ、あの人が陸遜さま?」 「何だい、知ってたのかい」 「……地味に、知ってたりするだけです」
私の返答に女将さんは「なんだいそれ」と笑った。地味、というか、間接的にしか知らない「陸遜」の存在をまさかここで知ることになるとは思いもよらなかった。 手中にある飾りを見下ろす。あの人が、陸遜。どうして典医でもない軍の将がここに来たか。その疑問が少しだけ晴れた気がした。呂蒙さまが言っていたこと。甘寧さまが言っていたこと。全部をあわせていくと、総じて答えは導き出される。怪我をしている。大丈夫なのだろうか。そこまで考えて、私は首を振った。 横顔を思い出す。涼しげな視線、凛とした背筋、気丈な歩み。きっと、本人が言うようにそこまで酷いものではないのだろう、と。
「丁度いいし、名前ちゃん返しといてくれないかい」 「……はあ」 「さて、夕餉の準備でもしようか」 「あ、手伝います」
女将さんの言葉に、手にしていた飾りを自分の懐にしまった。その際目に留まった鮮やかな浅葱色が、心に強く刻まれた。
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