×長編 | ナノ




 欠伸を一つ、噛み潰す。結局戦の後始末は未明まで続き、あまり睡眠の取れない状態のまま日常業務に身を投じることとなったのだ。けれど穏やかな日常は確かに舞い戻りつつあった。というのも、一晩で収まるというのはここで働く典医の皆さんが優秀だからだろう。

 私は充分過ぎるほど優遇された身だった。典医というにはあまりにも未熟で、薬師というにはあまりにも政に関わっている立場の人間。一体どういう存在なのか自分でもよく分かっていない。
 ここで働き始めたきっかけは、あまりにも突拍子もないものだった。前に自分が働いていた薬舗を訪れた典医さまが、その働き振りを評価してくれたとか、抜擢してくれたとか何とか。
 詳しいことは知らないし、説明を求めることもしなかった。自分としては働く場所がただ変わっただけで、さほど日常に大きな変化がない。ただそれだけのことだ。
 平穏な日々があれば、それで構わない。それ以上に待遇は充分なものだったから、自然と不満は湧き上がらなかった。ここにいる人たちは皆良いひとばかり。堅苦しいと考えていた軍の姿。良い意味で私の予想を裏切られたのだ。
 そうした経緯があって今、呉の軍に献身する立場になっている。
 けれど今は少しだけ、後悔している。ここで働くことにではない。何故もう少し考えずに、返事してしまったのだろう、と。
 平穏なのは平穏だけど、たまに、最近では頻繁にその日常が崩される。その大半の原因が戦にあった。もちろん、怪我人が出ることで私の執務は成り立っているのだからこれ以上ないくらいに働き甲斐のある場所だとは思う。けれど、元々そこまで勤勉な性格でもないせいか、ここ最近の忙しさには目が回る思いだった。

 そこまで逡巡して、一つ、長い息を落とす。目を瞑れば途端に襲い掛かる眠気が、苛立ちを増やしていた。すると、室内にからからと笑い声が響いた。薬を受け取りに執務室を訪れていた呂蒙さまの声だ。そのことで、思考は現実へと引き戻される。

「随分疲れているようだな」
「あ、ええと。……上官を前に、申し訳ありません」
「いや、構わん。昨夜はさすがのお前も疲労困憊だろ」
「さすがってなんですか、さすがって」

 苦笑しながら、煎じた薬の包まれた布を彼へと渡す。典医始め、医官達が執務を行うこの部屋を訪れた呂蒙さまがそれを受け取りながら、また笑った。軽快に笑う人だ。そのお陰か、こちらの疲れも少しだけ薄まる。

「頼まれていたものです」
「おお、すまないな」

 渡したのは昨夜凌統さまに処方したものと同類のものだ。ここへ来るや否や、「すまんが外傷に効く薬を貰えないか」と言った呂蒙さまの顔を見上げる。処方に使用した鉢をしまいながら、尋ねた。

「見たところ、怪我されたのは呂蒙さまではなさそうですが」
「ああ、部下がな」
「そうですか」

 自分の臣下のためにわざわざここへ足を運んだのか。その行動に、彼の優しさが伺える。同時に、仕える身としてはこれ以上ないくらい嬉しいことだろうな、と顔も知らぬ部下のことを考えた。そういえば、最近呂蒙さまの下に若い将が入ったと噂で聞いたことがある。

「まあ、それほど大した怪我でもなさそうだがな」
「念のため、見立てますか?」
「……そう、だな」

 どこか歯切れの悪い返答に首を傾げる。すると呂蒙さまは困ったように表情を崩し、いや、と首を振った。

「悪化する前に診せに行くよう言っておこう」
「そうですか」
「尤も、来るとは思えんが」
「はあ、それはまた」

 困った部下ですね。他人事のように言った言葉に、呂蒙さまは驚いていた。医官として、あるまじき発言だと思ったのだろうか。怒鳴られるのであれば訂正するけれど、基本的に私の姿勢は変わらない。大丈夫だと本人がいうのであれば大丈夫だろう。そういうものだ。
 彼の部下の容態を何も知らないのだから、頭ごなしに来いというのも変な話だと思ったのだ。ただし、目の前で強がりをされた場合は除く。
 何が可笑しかったのか、呂蒙さまは私を見ながら「おかしな女人だ」と言った。
 それは褒め言葉ですか。

「とりあえずその薬を一日数回患部に塗れば大体の傷は回復すると思いますので」
「ああ、助かった」

 そう言って、呂蒙さまは退室した。その後姿を見つめる。けれどすぐに次の患者が現れて、再び仕事の手を動かし始めた。すぐに忘れた。彼の部下が怪我しているということも、困ったように笑った呂蒙さまの笑みも全部。
 日常というのは、そういう他愛のないことばかりだから一々覚えてもいられないのだ。