×長編 | ナノ



 戦場という場所を知らない。
 ところが仕事上その傷跡を垣間見ることが多いせいで、人一倍争いごとを嫌うようになってしまった。いや、「なってしまった」というのはあたかも不本意にそうなってしまったような感じがして、表現上よろしくない。本来、人とはそうであるべきだと思う。争いなんてなくなればいいのに。よって、この姿勢を崩す必要はないわけ、で。
 ないわけで。

「いってえ! もっと優しく出来ねえのかよ!」
「生憎と無理です」
「だからいってえっつってんだろーが!」
「ご辛抱ください」
「無理言うな!」

 それなのに、どうにも争いごともとい面倒事に巻き込まれてしまうのはこれいかに。

「名前ちゃーん、そのバ甘寧の手当て終わったら次、俺よろしくねー」
「凌統さまはご自分で出来ますでしょう」
「いけずだなあ」
「だーれがバカだってえ?」
「てめえ以外に誰がいるんだっての、大バ甘寧」
「ああ?!」
「はいはい喧嘩されませんようにー」
「いってえ!!」

 戦から帰ってきた兵たちを見て唖然としたのも束の間、あっという間に城中にあった平穏は音を立てて崩壊した。バタバタと城内を走り回り、後始末に追われて早数時間が経過していた。
 そんな中、今回の戦は呉の勝利に終わったという情報を、介抱の狭間で耳にした。
 勝利? どこが? みんなぼろぼろじゃないか。指揮を執っていたのは誰なのか、どういう基準で勝利とするのか、生憎と戦に出ない女の身分でそんな反論なども出来ず。しまいには看病の恩もされず、青筋立てて怒鳴られ、苛立ちは積もる一方だった。

 致命傷でなくとも、それなりに傷の負った甘寧さまの手当てを終え、辺りを見渡す。
 凱旋した軍の中で、負傷者の数は相当のものだった。綺麗に清掃された室内はあっという間に泥と血の混ざった匂いで充満し、これでは疫病の発生源になりかねないとありとあらゆる戸口、窓が開放され、外の空気が取り入れられている。絶えず入り込む冷たい風に、薄着だったせいか体が震えた。

「さ、て」

 落ち着きを取り戻し始めたから、寒いと思ったのか。そうであってほしい。先程まで寒いなどと考える余裕もなかったのだ。傷を負った箇所は絶対安静にしてくださいねと甘寧さまに伝えた後、少し離れた場所に座り込んでいる凌統さまへ近付いた。
 隠し切れない疲労の色が、こちらを見上げる。何てことないって顔をしているけれど、実際そんなことはない。ご自分で出来ますよねってあしらったところで、放っておけないのだ。

「やっぱり来てくれると思った」
「……怪我人には平等ですから」
「ほんと、いけず」

 苦笑して、凌統さまはだらりと垂れたままの左腕をこちらへ差し出してきた。手袋を外し、上着の袖を捲り上げる。彼の顔が痛みに歪んだ。致命傷ではない。けれど、そこには痛々しい血を滴らせる刀傷が二本、彼の腕を裂いていた。

「これは痛いでしょう」
「だから手当てしてってばー」
「……」

 おどけた口調で、どうしてそう笑っていられるのか、理解出来ない。痛いはずだ。絶対に。見ているこっちが痛々しさに泣きそうになるくらい。それなのに何でもないって顔して、凌統さまは笑っていた。本当に、戦に出る人の考えや行動なんて理解の範疇を超える。
 いくつかの材料を混ぜて処方した薬を手に取り、患部に塗っていく。材料の中に蜜蝋があったせいだろうか、独特の香りが血に麻痺しきっていた嗅覚を緩和してくれた。

「あれ、沁みない」
「あまり刺激のないものを使っていますので」
「へえ」
「……甘寧さまは、ああでもしなければまた度の越えた無茶をなさいますから」
「はっ、違いない」

 その点、凌統さまは節度がある。まあ甘寧さまが関わると、どうにも暴走しがちと専ら噂だけれど。
 厚手の布を宛がい、くるくると巻いていく様を凌統さまはじっと見つめていた。なんですか、と問えば、器用だねえなんて呑気な声が返ってくる。呆れた。本当に、どうしてそうやって笑っていられるのか。分かりかねる。

「あ、皺」
「なんでしょうか」
「すっげー皺寄ってる、名前ちゃん」
「そうですね、とっても苦労してます」
「ふうん、大変だねえ」

 言っておきますが凌統さまも苦労を増やすお一人ですから。と言いたかったけれど、さすがにそれはまずいと思って口を噤んだ。布の端を既に巻かれた箇所に折り込んで、固定させる。

「はい、これで終わりです」

 感心したように、凌統さまが口笛を吹いた。「さっすが」とお褒めの言葉付きで。

「定期的に包帯は代えてくださいね。少しでも膿のようなものが出てきましたら」
「分かってるよ。そん時はちゃんと診せに行くっての」

 それならばいいです。
 適当なところで会話を終え、凌統さまの元を離れようと立ち上がった。同時に、自分の眉間に手を宛がってみる。皺、寄ってるかな。それ程、嫌そうな顔をしていただろうか。上官を前にして、本来であるならば無礼とされる態度にも関わらず凌統さまは何の咎めもしなかった。ありがたい話だ。

「それじゃ、私は失礼します」

 一礼し、依然としてこちらを見上げる凌統さまに背を向けようとした時だった。「名前ちゃん」、呼び止められ、見下ろした先で彼はひらひらと布に覆われた左を振って笑った。

「手当て、ありがと」
「いえ。それが仕事ですし」
「それとね、本当に苦労してる奴は自分で苦労してますって言わないと思う」
「……つまり?」
「また、名前ちゃんにはお世話になりますって話」
「あまり無茶なされませんように」
「死なない程度にはね」
「……」

 前言撤回したい。甘寧さまも凌統さまもさほど変わらないじゃないか。誰ですか、節度があるって言った人。私か。

 再度、室内を見渡した。負傷した兵たちは皆、それぞれ介抱されているようで主だった負傷者はもう見えない。ぐん、と一つ伸びをする。
 まだ寒さの残る建業の街並みは闇に包まれていた。それでもこの城内が寝静まるのは随分後のことだろう。