×長編 | ナノ




 汗を拭くためのタオルを持ちながら、降谷君が私の近くまで歩いてくる。ここにいることに、彼は気付いていたのか。あの真剣な練習時間の中で少しでも私のことを思い出し、考えてくれていたのか。そんな思いに何故か胸が熱くなっていくのが分かった。どうして、何で。言い知れぬ疑問が自分の中に湧き上がっては留まり続ける。靄が架かったように晴れない気持ちが、鬱陶しく思い静かに息をついた時だった。

「……見てたんですね」
「え、あ……練習?」
「はい」
「まあ……その、見さして頂きまし、た」
「……」

 相変わらず落ち着いた口振りだと思った。練習に疲れたような素振りは感じられない。これが彼のスタンスなのだろう。目を細めて、今まで遠いと思っていた彼との距離の近さに改めて驚く。すごい人なんだと、知った時に感じた寂しさはいつの間にか消え去っていた。

「降谷君て、すごい人だったんですね」
「敬語」
「え?」
「よそよそしい敬語、要りません」
「……え」
「あなたは年上だって」
「あ。知ってるんだ」
「先輩に聞きました」
「……小湊君?」

 無言で頷く。
 そういえば小湊君は降谷君から私に関する話を聞いたと言っていたけど、一体何を聞いたんだろう。自分のいないところで友達と降谷君が私の話をしていたのかと思うと微妙な心境になった。小湊君、何か余計なこと言ったりしてないと良いんだけど。あの電話のこととか。誤解されたままの状態をやっぱり無理にでも解いておくべきだったと後悔しても今更遅い。ただただ彼が変なことを吹き込まれていないよう、祈るしか出来なかった。

「……いきなり電話で僕のこと聞いてきたって」
「……」

 祈っても無駄だったみたいだ。乾いた笑いをするしかない。

「もしかして、嫌だった?」
「え、」
「や、あの、勝手に降谷君のこと聞いたりして……ごめんなさい」
「……謝られてばっかりですね」
「え?」
「先輩には、謝られてばっかりです」
「え、そうかな?」
「はい」

 そういえば、最初に会話した時も私は降谷君に対して謝罪をしていたような気がする。変なの。まだ知り合って日にも浅い間柄なのに。

「それで」
「うん」
「何か、用事ですか」

 あ。
 危うくここへ来た目的を忘れてしまうところだった。慌てて私は鞄の中に入れていたものを取り出した。探り寄せ、右手がひんやりとした物体の温度を感じ取る。買ったのはここに来る前だったらもう冷えてはいなかったけどこの際気にしなかった。それを、目の前で不思議そうな顔を浮かべる降谷君に差し出す。

「あの、これ」
「……何ですか」
「ポカリです」
「……僕に?」
「うん。で、その。昨日はポカリ、ありがとうございました」

 彼が私の差し出したポカリを手にしたのを確認した私はゆっくり頭を下げる。ずっと言いたかったことが言えた。それだけのことなのに、妙なスッキリ感を覚える。

「……別に、お礼なんていいんですけど」
「や、でもお気遣い頂いたんで」
「……」

 途切れた会話。ポカリを渡し終えて、お礼を述べた。そのことがここで、私と彼の接点が消えていく。そんな気にさせた。開いていた鞄のジッパーを再び閉ざした手を、胸の前で握り締める。宛てがった胸の鼓動は、いつもより心なしか速い気がした。

 何、で。

「……あ、えーと。……じゃあ」

 何で私、別れを告げるのが心惜しいなんて思っているんだろう。

「私これで」
「あの」

 言い掛けた私の言葉を遮る声がした。まるで刃のような鋭さを持ったそれ。思ってもみなかった彼の言動に、自分の目が次第に見開かれていく。目の前にいる降谷君がゆっくりと、言葉を選びながら口を開いた。

「……名前、を」
「名前?」
「名前を、聞いていなくて」
「……もしかして」
「……」
「私の?」
「他に誰がいるんですか」

 無愛想な対応。仄かに抱いた感情が、私の心を次第に柔らかく、穏やかなものに変えていった。知りたいと思ってくれているって、期待してもいいのかな。練習中、私の姿に気付いてくれたと知った時のような嬉しさが再び舞い戻ってくる。

 懸想。
 一瞬降りかかった思考に、慌てて頭を振る。そんなこと、ない。

「……苗字名前です」
「苗字先輩」
「ええと、はい」
「……ポカリ、ありがとうございます」

 ふわりと、降谷君が微かに笑ってくれたような気がした。

「―……っ」

 一瞬にして全部の感情が、彼に奪われたような錯覚に陥ってしまった。

「すみません。部活に戻るんで」
「あ……」
「良かったら、その」
「……降谷君」
「また見に来て下さい」
「……っ」
「じゃあ」

 懸想。
 誰かを好きになる感情が、こんなに儚いものだなんて認めたくなかっただけなのかもしれない。けれど誰かを好きになることに、きっかけの大きさも時間の長さ、ましてや年齢の差も関係なくて。

「……あの、降谷君!」

 誰かをずっと見ていたい。それだけで、充分に人生が輝くことを知ることが出来た。喉の奥が余韻を残すように痛みを訴えてきている。「これ」が、私の中にあるの微かな気持ちに出会わせ、それが何かを教えてくれた。

「はい?」
「部活、頑張ってね!」

 それなら、たまには風邪を引くことも、悪くない。

風邪を引いた女の子の話



~20090611 成瀬