×長編 | ナノ



「じゃ俺も部活やるから」

 何度目かの降谷君の投球が終わった後、小湊君はそう言ってグラウンド入り口に足を向けた。けれどすぐにそれが止まる。どうしたのと聞く前に小湊君は去り際の捨て台詞のような言葉を零した。

「休憩なら七時前に一度あると思うけど」
「え」
「じゃあね」

 楽しそうに笑いながら、小湊君は私に背を向け行ってしまった。暫し言葉を失いながらも私は、溜めていた悪い空気を吐き出すように盛大な溜息を零す。七時前って……、鞄から取り出した携帯の時刻は午後五時半を報せていた。あと一時間半。不思議なことに、うんざりした気持ちも手持ち無沙汰さも持たなかった。

 とりあえずは風邪をぶり返さないようにと気を遣うだけ。人がたくさんいない場所をなるべく選んで、誰も座っていない金属製のベンチに腰を下ろした。ここからなら降谷君が投球練習をしているところが見える。全体の集まりがあるのか、そこには降谷君の姿はない。その時、ぼんやりと時間を過ごしていた私の肩を誰かが叩いた。

「名前じゃん」
「わ、榎本」

 振り返った先にいたのは、クラスメートの榎本。にこりと笑った彼女が、私の座る隣に腰を下ろしながら口を開いた。

「何でこんなとこいるの?病み上がり」
「病み上がりってかまだ病み上がってないけどね」
「わ、移さないでよ」
「大丈夫、私、風邪菌に好かれてるような気がするし」
「あはは。それにしても珍しいね。名前が野球部の見学なんて」
「そう?」
「うん。いっつも授業終わったらすぐ帰るじゃん」
「まあ、ね」
「それが何、心境の変化?」

 からかうような口調の榎本が身を乗り出しながら私の顔を覗き込む。私はというと、苦笑を浮かべ、どう答えようか迷っていた。事実、ここに来るのは初めてのことだから、言い訳のしようがない。だからといって素直に話す気にもなれなかった。

「それより榎本はよく見に来るの?」
「あ、話逸らしたな」
「良いから良いから」
「んー……しょうがないなあ」
「何がしょうがないなあ、よ」
「週に二、三度くらいかな。高校野球好きでさ」
「へー」
「親の影響かな」
「ほー」
「聞いてる?」
「うん。聞いてる聞いてる」
「で、今年は結構良い線行ってるみたいだから」
「そうなんだ」
「つい、ね」

 つい見に来てしまうような、魅力が野球にはあるのだろう。榎本の顔を見ているとそんな風に思わされる。ルールとか面白みとか、そんな詳しくは知らないけど。

 いつの間にか投球練習が再開されていた。唸るような轟音が耳を刺激し、ビリビリとした衝撃が走る。

 野球のことは詳しく知らないけど本能的な何かが、私を納得させていた。野球は面白いものなんだって。降谷君の真剣な表情を見てると、更にそれが深まった。

「名前は、もしかして個人的な応援?」
「は、」
「分かりやすいよ、その顔」
「……」
「ま、まあ、そんな、今年は良い線行っていると言われてる青道高校なんだけど。その裏付けが一つ、毎年恒例の爆発的打線」
「打線……えーと、攻撃」
「そう。んでもう一つ」

 言いながら、榎本がゆっくりと指差す。その先にいるのは、投げる体勢に入っている降谷君の姿があった。

「怪物ピッチャーの登場って訳」
「怪物……降谷君が?」
「そう」
「……すごい人なんだね」

 暮れかけの夕日が徐々に私の体力を奪っていく。初夏の風は涼しいとは言え、直射日光……もとい直射夕日はキツいものがあるなあ。額にじわりと掻く汗を拭いながら、それでも視線が降谷君から外されることはなかった。

 話した時はそれほどすごい人だって思わなかったけど、どうしてだろう。

「すごいって言うか、うん……まあすごい人なんだけど」
「……いなあ」
「え?」
「遠い、なあ」
「名前……?」

 遠い距離になればなるほど、その存在がすごいものだと思わされるなんて。

「あ、ごめん。なんかぼーっとしてた」
「大丈夫?風邪ぶり返した?移さないでね」
「あはは、大丈夫だってば」

 繕うように笑いながら、目は依然として降谷君の方に向いていた。フェンス越しのその姿をどこか焼き付けて、忘れないようにと思いながら。ただ私は、ポカリを貰ったお礼を言いたいだけ。言ったらもう、彼との接点はなくなる。

 振りかぶった降谷君がまた、キャッチャーミットにボールを投げつけていた。

「すごい人かあ」
「榎本?」
「うちらより二歳年下なのにね」
「え?」
「あれ、知らなかった?降谷君、今年入ったばっかの、ルーキーだよ」
「……はあ」

 彼との接点がなくなることを、寂しいと思うなんて。