×長編 | ナノ



 野球部のグラウンドには、目を張る程の観客がいた。今まで一度も近寄ったことがなかったからその多さに唖然とし、足が止まってしまう。熱はないものの、未だ風邪の症状が少し残っている私をまるで励ましてくれているみたいに初夏の涼しげな風が吹いた。

「……う、わー」

 誰に言うでもなく、呟く。見渡す限り、グラウンドを覆うフェンスのこちら側には人。うちの高校の制服を着ている人がほとんどだったけど、中には違う人もいた。他校かな。強豪だということは知っていたけど偵察に来るくらいにすごいとは。よくよく見れば、高校生じゃない人もいた。カメラを構えてるのは多分、記者の人。険しげな表情でグラウンドを見ているのは……OBだろうか。いずれにせよ、ここにいる人達の双膀はフェンスの内側、青道高校野球部専用グラウンドへ向けられていた。

「苗字?」
「あ、」
「……ふうん」

 グラウンドの内部へ入る扉の近く。呆然と立ち尽くしていた私の存在に気付いた人物が、含み笑いを浮かべながら話し掛けてきた。嫌な予感というか、また……こう、誤解を重ねられるのではないかと心配になる。片手に重そうな鞄を担ぎ、何人かと一緒に歩いていた小湊君はその輪から外れこちらに歩み寄ってきた。

「……降谷?」
「や、ちょ、だから教室でも言ったけど誤解なんだって。それ」

 教室では相手が小湊君だったため、派手に言いふらされるなんて心配は全くなかったもののそれよりたちの悪いからかわれ方をしたものだった。目が合えば格好の獲物を見るような視線。口元に浮かんだ笑いは全て分かりきってるような性質のもの。それなのに当の私には一切何も聞いてこないなんて、悪質もいいところだ。今日一日の教室内での彼を思い出し、無意識に眉ねをひそめた。

「ふーん……」
「……白々しっ」
「保健室」
「はっ!?」
「らしいね、昨日知り合ったんだって?」
「……な、んで」
「あっちから聞いた」

 あっち。
 その示す固有名詞は一つしかない。彼は私には何も聞いてこなかった。それなら、と、その姿が思い浮かびそうになったまさにその時だった。見学していた人達の喧騒を、かき消すような轟音が鳴り響く。

「……っ、え?」
「はは」
「小湊君、いまの、何?」
「まだ部活前なのに、飛ばしてんね」
「……」
「結構な曲者」
「は?」
「言ったと思うけど?」
「まさか、今の、降谷君?」

 驚きを孕んだ私の声に、小湊君が笑う。そうだよ、なんて言われたって、素直に納得なんか出来なかった。そんな私の様子に小湊君が何か思案した後、ゆっくりとどこかを指差した。導かれるようにそちらへ目を移す。その先にある、姿に暫くの間言葉を失ってしまった。

 青道高校の練習ユニフォームに身を纏った一人の男の子。後ろ姿から、それが誰なのか判別するのは難しかった。男の子はゆっくりと両手を上げ、振りかぶる。片足が上がり、今までの緩やかな動きが一転、素早いスピードで投球体勢に入った。息を付く暇もなく投げ放たれるボール。それを目で追うことは素人の私には難しいもので。それでも次の瞬間の、キャッチャーミットに収まった時の轟音が全てを物語っていた。

「……すご」

 ありがちな、感想だと思う。だけどそう呟いた私の声に、小湊君は満足したような笑みを浮かべていた。投げ終わった男の子がマウンドを均すために足を動かしている。そしてその人物は汗を拭うためにこちらに顔を向けたまま、帽子を脱いだ。

 降谷、君。
 その姿は、紛れもなく昨日、保健室で寝ていた人物のものだった。

「……ふ、」
「だから言ったじゃん」
「降谷君」

 あちらこちらで降谷君の投球に対する歓声が上がっていた。その中には時々黄色い声援のようなものも含まれている。

『苦労するかもね』

 そう言った小湊君の言葉の意味が、分かったような気がした。