×長編 | ナノ



 食事を終えた私が一番最初にしたことは携帯を見ることだった。新着のメールはない。すぐにアドレス帳を開いて、スクロールボタンを押していく。か、き、く、け……。

 こ、の文字は一人しか登録されていなかった。コールボタンを押す際、一瞬戸惑いが生じたが大丈夫だろうという根拠)ない自信を信じることにした。
 無機質な音が反復する。七回目か八回目に達した時、突然それは途切れた。

「あ、小湊君?」
『……他に誰だと思うの?』
「……小湊君」
『何の用』

 呆れたような声が、用事を急かしているようにも思えた。

「もしかして……これから部活、とか、ですか」
『部活とかっていうか部活。手短にね。そういえば風邪は?』
「お陰様でまあ、マシになったかな。それよりちょっと、その……」
『何?』
「聞きたいことが、ありまして」
『聞きたいこと?』

 スピーカーの向こうで、不思議そうに小湊君が私の言葉を繰り返した。途端に、どう切り出したらいいのかと迷いの念に駆られる。勢いで電話したのはいいものの、もしかしたらこれは。

「……野球部に、降谷君ていますか」

 とんでもなく誤解されるような疑問なんじゃないかって。

『降谷?』
「そう」
『うちのピッチャーだけど。何で苗字が降谷知ってるんだよ』
「ピッチャー……じゃあやっぱり野球部なんだ」
『そうだけど』
「ああ、ありがとう。ちょっと気になっただけなんだ。下らない用事でごめん」

 野球部に彼がいる。そう分かっただけでも収穫だ。これ以上小湊君に時間を取らせるのも何だしと、電話を締めようとする私を小湊君が制した。

『苗字』
「え、うん?」
『降谷は苗字知ってる?』
「や、多分名前とかは知らないと思う。顔だけ」
『そう』
「小湊君?」
『あいつ、結構曲者だから苦労するかもね』
「は?」
『ま、頑張って』
「ちょ、ちょ!なんか誤解してる!?」

 自らが招く可能性があったとはいえ、実際に誤解されると何か、戸惑ってしまう。反対に至極楽しそうな口振りで声を紡ぐ彼。両者にある極端な違いに、開き直りとも取れる、乾いた笑いが出そうになった。

『じゃあ俺部活行くから』
「あ、ごめんね。下らないことで」
『いや、別に』
「……なんか裏ある?」
『ノート代』
「へ」
『一教科二百円』
「……榎本に頼むから、良い」
『あ、そう。じゃ、その榎本にこのこと話すからね』
「は」

 疑問を口にする前に通話は途切れてしまった。プー、プー、という音が耳元で鳴り続ける。半ば放心気味に耳に当てていた携帯を下ろしながら、小湊君が言った言葉を反復させた。榎本にこのことを話すからね…………?

「わー……めっ、ちゃくちゃ、勘違いされてる?」

 私の中には、何とも言い切れない感情が渦巻いていた。

 ちらりと、テーブルの上のお盆に目をやった。布団から体を出し、空になったお椀の横に未開封のまま置かれている缶を手にする。それでも、降谷君が野球部のピッチャーだと、知ることが出来た。言い表せない感情を切り裂くように、爪に引っ掛けたプルタブが景気の良い音を上げる。そして、注いだポカリを口に含むと今まで感じていた不快感や鬱陶しさが全部消え去っていくような気がした。

 魔法の薬みたい。自分でも随分ファンタジーな例えだと笑いたくなった。その不透明な色は、海の水面が太陽光で反射しキラキラと輝いた時のような眩しさを携えている。窓の外はすっかり夕日色に染まっているというのに、私の瞳には未だ青空のようなポカリスエットのパッケージが映し出されていた。

 元気を貰ったお礼、言いたいな。
 明日は学校に行けるように、今は何も考えず、ただ元気を取り戻すことに専念しよう。