×長編 | ナノ



 多少の寄り道はしたものの、午後一時過ぎには自宅の玄関に足を踏み入れることとなった。まだ明るい平日にここにいることに多少の違和感を抱くも、芳しくない体調はすぐに寝室を求め始める。

「お粥か何か作ろうか?」
「あー……いいや、今は寝たい、かも」
「そ、まあ病院は行かなくていいよね」

 きっぱりとした口調。それもそうかと自分の母親の職業を思い出す。休みも勤務時間も不安定な看護師という職業に、どうして母親はなったのだろう。何度か聞いたことがあったような気がしたが熱に冒される頭は上手く答えを弾き出してはくれなかった。ただただ思い出すのは、小さい頃から家を空けることの多かった母親の職業への不満。一度も口にしたことはなかったけれど、こういう時は確かに安心ではある。

「熱は計った?」
「午前中に……」
「そう。じゃあまだ上がってるかもね。後で部屋に持っていくから」
「うん……。ねえ、お母さん」
「ん?」
「何でもないや。寝るから、おやすみー」

 背を向け、気だるい体を駆使しながら辿り着いた自室。保健室で寝た時のように、体を投げ出した。反動をその身で感じつつ、私はカーペットの上に置いていた鞄を手繰り寄せた。

 中から取り出した青色の缶。さすがにこの季節になってしまっては、最初に感じた冷たさも失われていた。彼が何のために、知り合ったばかりの私にこれをくれたのか。そもそもくれたのは本当に彼なのか。確かめる術は一つしかない。もし与えてくれたのが彼ならばお礼を言わなくちゃ。そして私は缶を握り締めたまま、眠りについた。



 ベッドの上に置かれた目覚まし時計は、午後五時十二分を指している。朝なかなか起きれない私が、わざと五分速まらせたその時刻を頭の中で正確なものに直す。五時、七分か。随分長く寝ていたものだ。まだ些か熱い額に右手を添えてみると、いつの間にか熱冷ましの効果があるシートが貼られていた。しかし熱が高い、もしくは汗を掻いたせいか起き上がったと同時に粘着力をなくしたそれが剥がれ落ちる。後頭部がひんやりしているのも、母親の配慮だろう。枕を軽く叩くと、水の音がした。昼間起きた時より幾分か気分がマシになったような気がする。改めて体温を計ろうと枕元に手をやった時だった。

「あれ……」

 私が呟くと同時に部屋の扉が控え目にノックされる。そのまま返事をせずにいると遠慮がちに開かれた扉の先から母親が顔を覗かせた。

「あら起きてんなら返事しなさいよ」
「お母さん」
「何?……ん、随分まあ顔色はマシになったんじゃない?」
「ここに、その、ポカリなかった?」

 指差した方向には、確かに寝る前置いていたはずの青い缶はなくなっていた。焦燥にも似た感情が、口振りを荒げる。何を焦っているのか、自分でもよく分からない。けれど、どうしてだろう。

 彼との接点が消え去ってしまいそうで。

「ああ、それなら冷蔵庫で冷やしてる。温くなってたからね」
「あ、そう……なんだ」
「飲む?」
「ん……」
「そんならついでにお粥も持ってくるわ。食欲は?」
「ぼちぼち」
「ぼちぼちでっか」

 ふざけたように笑いながら部屋を出て行った母親は、すぐに戻ってきた。開け放されたままの扉の向こうの廊下の窓から、青い空が見える。そうか、夏が近付いてるから日が長いんだ。そんなことを思っていると、片手にお盆を持って部屋に入って来た母親と目があった。

「なんか……変な感じ」
「何が?」
「お母さんに看病されるなんて」
「あら、失礼な娘」
「いつも仕事で、いないからかな」
「……」「なんか……こう」
「うん?」
「痒くなる」
「はいはーい患者は黙って飯食って精付けて寝なさい」
「患者にそんな言葉遣いしてるの?クビになるよ」
「残念でした。病院での私はそりゃもう白衣の象徴のごとく」
「あーお腹減った!」
「はい無視ー」

 二人、どちらともなく笑う。母親が不規則な仕事である以上、親子として共有する時間は他の人より少ないかもしれない。だけど、そんなことを微塵にも思わせないやり取りがお互いを面白おかしくさせたのだろう。

「熱いからちゃんと冷ませてから食べなよ」
「んー」
「熱はそれ食べた後計りな」
「んー」
「……そのポカリは愛しの子から貰ったものかなー?」
「ん……、んーん」
「引っかからなかったか」
「引っかからない。本当のことだもん」
「本当のこと?じゃあ誰から貰ったの。友達?」

 湯気の立ち上がるお椀にレンゲを入れ、お粥を救う。中央に埋められてうっすらと色を放っているのは梅だろうか。そんなことを思いながら、視線は次第に同じお盆に置かれたポカリへと向けられていった。その隣には飲みやすいようにとの配慮だろうか、いつも使っているガラスのピカルディが置かれていた。「……」
「どした?火傷でもしたとか」
「……知らない子」
「は?」
「知らない子に、貰った」

 そっと手を伸ばした先。ひんやりと再び冷気を纏いながら汗を掻き始めている缶に触れた後、どうしてかは理解出来ないけれど……カーテンを開けた先で眠りに落ちていた降谷君の寝顔を思い返していた。

「あんたもやるねー」
「……は?」
「んー、さすが私の娘」
「意味分かんない」
「分かんなくても良いから早く治しなさい。元気じゃない名前なんか名前じゃないんだから」
「はあ」
「じゃあ食べ終わったらちゃんと熱計りなよ」
「はーい」

 良い返事だ。満足げに笑った母親はその後すぐにリビングへ戻って行った。夕食の準備をしていたのだろう、廊下からは仄かに料理の香りがして……いたような気がする。鼻が詰まっていてよく分からないけれど時間帯からして、母親が暇を持て余しているような時間ではないと分かった。パタンと静かに閉じられたドア。その一部始終を見届けた後、私は食事を再開した。掬ったお粥の味がどこか懐かしい気がする。