×長編 | ナノ



 視線の先の携帯の液晶画面。これが病人に送るメールなのかと疑いたくなるような小湊君からのそれを一旦閉じた後で新規メールを作成する。宛先は母親。題名はいつものように記入しない。手短に今の状態と、迎えに来てほしいという内容を本文に打ち、送信したと同時にカーテンが引かれる音がした。

「あら。起きた?」

 私の寝るベッドの横に例の男の子がいることに別段気にも止めない素振りで保健の先生が顔を覗かせた。ここに来てようやくふんわりと仄かに薫る香水を彼女が纏っていたことに気付く。男の視線を集めるべくキツい香水を振り撒く女性とは違う、さり気ない女らしさ。また、好感を抱いた。

「はい」
「どう?」
「どうもこうも」
「最悪、ね。その顔見てると」
「です」
「お母さんは?」
「あ、今メールしました」
「そう」

 その穏やかな笑みは保健医として、完璧なものではないだろうか。そんなことを思いながら再び視線は携帯へ移る。勤務中だと言うにも関わらず母親からの返事はもう届いていた。

address:母
title:今は休憩中
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ドライブがてら迎えに行ったるから十二時半くらいに校門にいな。倒れてたらほっとく。

「……」
「お母さん?」
「はい」
「何て?」
「ドライブがてら迎えに来てくれるらしいです」
「え?」
「倒れてたらほっとくって」

 メールの文面を掻い摘んで説明すると、先生は至極愉快そうなに笑いながら「良いお母さんね」と言った。対称的に男の子の方はというと、少し驚いたような表情を浮かべている。

「じゃあ十二時くらいまでここで寝てなさい」
「え」
「え、じゃないわよ。ここ以外どこに行くの。教室に行ったところで追い払われるわよ。病人は出てけ!なんて、ね」

 冗談混じりなその声に私は力なく笑う。ありがとうございます、そう言った私に彼女は女性らしい綺麗な笑みを浮かべて反応を返してくれた。と、次に彼女は私の隣に座る男の子の方へ、視線を移した。

「ほら、降谷君。目を覚ましたんなら君は教室に戻りなさい」
「……」
「聞こえないフリ?……全く。最近の男の子ったら可愛くないわねえ」

 降谷君、と呼ばれた男の子は先生の言葉に耳を傾けることなく座り込んだままだった。その顔色からして、病気でここに来た訳ではないと推測する。サボリかはたまた、……いや、この場合、選択肢はサボリだけ、か。もしかしたら彼も昼休みにここを訪れる他の男の子達と同様の理由なのかもしれない。何となくだけど、年上好きそうだし。

「いやいやいや」
「え?」
「あ、いや。私ったら何考えてんのかなあと。自問自答だから、気にしないで下さい」

 訝しげにこちらを見た降谷君という人に取り繕った笑いを向けた。手にしていた携帯を枕元に置き、乱れていた布団を改めて肩まで覆わせた。それにしても口数の少ない人だなあ。枕元に埋めていない顔の半分、一つの視線は相変わらず降谷君へと向けていた。

「全く……今から夏バテじゃ、甲子園に行く前に力尽きるわよ」
「……尽きません」
「そーいう、野球に関することはきっぱり言えるのね」
「……」

 野球?甲子園?
 いきなり先生の口から出た単語に疑問が浮かぶも、直結する答えは一つしかない。野球部なのかな。でも私がイメージする野球部に似つかわしくない容姿は説得力を持ち合わせていない。本当に野球部?……それが第一印象だった。それにしても、保健室に来た理由が夏バテだなんておかしい話でもある。くすりと笑うと同時に降谷君は私の方へ視線を落としてきた。

 今更かもしれないけど、寝ている自分自身を見られる恥ずかしさが込み上げる。寝顔、見られたかな。

「あの、えーと、……ふるやくん?」
「はい」
「ごめんなさい」
「え?」
「や、起こしちゃったこと」
「ああ」
「それと見苦しい寝顔を見せたこと、かな」

 何も答えない。ちょっとは否定するとか、そういうのはないのか。いや今出会ったばかりの相手にそれを求めるのはいかがなものか。

「ほーら!降谷君!病気の子にちょっかい出さない!」

 いい加減にしなさいと言わんばかりに声を荒げた先生が彼の襟首を掴む。そしてそのまま、まるでギャグマンガの一コマみたいに彼を椅子から引き上げた。その細い腕のどこにそんな力があるのか。私が苦笑を零すと同時に降谷君は一人で歩けますと機嫌を損ねたような声で抵抗を示す。止まらない苦笑を浮かべながら、カーテンの向こうに消える彼の背を見送った後で再び目を閉じる、……はずだった。

「……あの」

 てっきり退出したと思っていた彼がカーテンを僅かに捲り、こちらに顔を見せた。びっくりしながらも私は丁度真上に位置する彼と視線を合わせながら口を開く。

「何でしょう」
「……スポーツドリンクは嫌いですか」
「は……?」

 唐突そのものの質問。意味の分からず首を傾げる私に彼はもう一度同じ質問をぶつけてきた。スポーツドリンクは、嫌いですか。聞こえなかったのかと解釈したのかそれは最初のよりも幾分かゆっくりとした声色をしていて、思わず意味を問いただすよりも先に首を横に振り、否定した。

「そうですか」
「あの、それが?」
「……」

 すると彼は私の質問に答える気がないのか、そのままカーテンを引っ張り私の前から姿を消してしまった。唖然としながら、何なんだ、と誰に聞くでもなく呟いた私の独り言は保健室の扉がスライドされる音に掻き消され自分自身でもよく聞こえはしなかった。