店の場所は覚えていた。交通の便が良く、立地にも恵まれているそこは、よほどの方向音痴でもないかぎり、道に迷うことがないだろう。だのに紫苑が行動を控えたのは、彼が二週間ほど舞台に立つため留守をすると聞いたからだ。名前も知らぬ俳優の詳細を調べることは不可能で、なにより、先輩が研究と同等に噂話に長じていたから、紫苑はそれ以上の情報を得ることを諦め、彼の舞台が終わる時が来るのを待つしか出来なかった。

二つ目の日曜日が過ぎ、紫苑は駅近くのビルへと足を向けた。彼がどういったシフトで働いているかなんて知りようが無いし、従業員用の出入り口があればここで待っても会えはしない。幾つかの懸念が浮かんだが、連日店の中で待つ資金がある訳でもなく、紫苑がとるべき方法は他に見当たらなかった。

日が暮れても尚、紫苑は一般客が潜り抜ける自動ドアを見つめていた。午後7時半を回った頃、紫苑の視線は、人並みの中から一際目立つシルエットを捉えた。すらりとした長身。高い位置でまとめられた髪。間違いなく彼だ。気が付くと紫苑は、彼の元へと走り寄っていた。

「あの、」

紫苑の声に彼が足を止める。急に呼び止められたというのに、驚く様子もなく振り返った。こうして声を掛けられることなど、彼にとっては日常茶飯事なのだろう。それくらい、自然に、優雅に、彼は首をめぐらせた。

「あの、突然すみません。僕のこと、覚えてないかもしれませんが……」

紫苑も身長が低い方ではないが、彼の身長はそれよりも上だった。澄んだ灰色の虹彩が怪訝そうに瞬く。

「紫苑だろ、あんた」

「え? どうして僕の名前を?」

「ったく、頭はいいくせに、相変わらず天然だな」

唇が蠱惑的な曲線を描いた。

「昔、一度だけ会ったことがある。腕を怪我した俺をあんたが助けてくれた」

彼の言葉に、紫苑はしばらく沈黙したあと、ああと上ずった声を上げた。忘れていた記憶の破片がパチリと音を立てて蘇る。

「もしかして、ネズミ? ネズミなの?」

紫苑の知るネズミは、髪を肩まで伸ばした華奢な少女めいた姿をしていた。確かに、特徴的な瞳の印象すら凌駕する整った目鼻立ちは、記憶の中にある面影と合致する。

「久しぶりだな」

「信じられない。もう会えないかと思っていた」

「薄情だな。俺はあの時、店に来たあんたに直ぐに気付いたってのに」

「ごめん」

「ごめんなんて顔、してないぜ?」

柔らかな息を吐いて笑うと、ネズミは顎をしゃくった。

「入り待ちしてたあんたに言うのもなんだけど、今から仕事なんだ」

「また会いに来ていいかな」

「今日は11時まで仕事なんだけど、それ以降でいいなら、残りの時間はあんたにあげられる」

「本当に!?」

紫苑は近くのファストフード店で落ち合う約束を取り付けると、自動ドアの奥へと消えていく彼の背中を見送った。道行く人が振り返るネズミと約束を交わすことは紫苑の優越感をくすぐったし、なにより、押しかけを嫌がったり断られたりしなかったことが嬉しかった。

心が躍りだしそうだ。紫苑は一足早く約束の店へ向かった。知らず、彼の名前が唇から零れる。今はまだ、12歳の頃のネズミと、現在のネズミがスムーズに結びついてくれない。けれど、開いた参考書の上で視線が滑るくらいには、紫苑を落ち着かなくさせた。もう会うことも無いだろうと、封印してきた感情が、今また芽吹いていくのを感じる。

幼い日、紫苑はネズミの強さと美しさに惹かれていた。


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