「夜分遅くに申し訳ありません。私は大将軍ヴァフリーズが義娘、イシュラーナと申します。画家志望のナルサス様はいらっしゃいますか」
アルスラーンが眠り、ダリューンとナルサスが二人会話をしている時に、部屋の中へ女声が響く。ナルサスの横で警戒したエラムだったが、肝心のナルサスは、
「開けてやれ」
"画家志望"と言われたのが嬉しかったのか、ナルサスは満面の笑みで戸を開ける許可を出してエラムを呆れさせた。扉を開けるとそこには緑を基調とする軽装の鎧姿が。そして何より目を引くのは紺の髪と深紅の瞳。
「こんばんは。もしかして、エラムさんですか?」
「…何故わかった?」
「兄さ…――従兄のダリューンから聞いていました。元ダイラムの領主ナルサス卿にお供する1人の男の子がいると」
エラムは驚いた顔をしてから、満更でもない様子でイシュラーナを中へ入れた。イシュラーナは血まみれのマントを外し、弓と剣を腰紐から引き抜いてへたり込む。
「イサラ!」
ダリューンが駆け寄ると、イシュラーナはどこから出てきたのだが分からないほど強い力でダリューンを掴む。赤い目が熱を持っているように見える。
「殿下は?!」
「ご無事だ。今は眠っていらっしゃる」
ダリューンの返事に安堵したのか、赤い瞳が穏やかさを取り戻す。イシュラーナはダリューンの後からやってきた、全体的に色素の薄い男性に向け頭を下げる。
「はじめましてナルサス卿。あなたのことは兄――従兄より伺っています。お会いできて何よりです」
「顔を上げてくれ。――こちらこそはじめまして、イシュラーナ。従兄とは違って俺のことを画家と呼んでくれるのはとても嬉しいぞ」
ナルサスが上機嫌な様子でエラムにもう一人前の夕食を準備するよう命じ、エラムは台所へと向かった。
「それよりもイサラ、お前1人でここまできたのか」
「はい。兄さんに万が一にと教わったあの地図でなんとか」
「そうか…無事でよかった」
「兄さんこそ。武勇を知っているので死ぬことはないと思っていましたが、やはり心配なものは心配でした」
ダリューンが頭を撫でてやればイシュラーナはホッとした笑みを浮かべる。ナルサスはその様子を見て、血のつながりはないとはいえ家族なのだということを実感した。最初にエラムと会話している時の緊張感も和らぎ、年齢相当の姿に見えた。
馬を迎えに行くと出て行って、そう時間をかけず戻ってきた彼女に軽く肉類をつまませて、風呂に入らせた。しばらくして出てきたイシュラーナの顔色は先ほどよりも良くなり、血や埃まみれだった紺の髪も汚れを落としたことで綺麗な色味を出していた。
夕食をエラムが持ってきて、イシュラーナはいただきます、と食事を口に運ぶ。美味しかったのか、ぱっと目を輝かせて無言で食事を続けて完食する。その様子から、ダリューンはいつものアレがやってきたか?と思ったが、イシュラーナはエラムに礼を言っただけでダリューンの横に座る。そして、
「おやすみなさい」
そう言うとダリューンの横で壁に背を預け、座ったまま寝入ってしまった。
「なっ…」
イシュラーナの行動にダリューンは驚いた。何せ、今までイシュラーナが好奇心の一端を出して、それを解決する事なく眠りに落ちるなどなかったからだ。
起きる気配のない彼女を見て、ふと今日は散々であったがそれでも彼女の初陣であった事を思い出す。彼女にとって人を斬ることは初めてではないとはいえ、疲労が溜まらないわけがないのだ。しかも、彼女はあの混沌を1人で駆け抜けて離脱し、ここまで来ている。むしろ、今までよく起きていたと思う。まあ緊張が解けなかったから故だという気もするが。
「ダリューン様」
「ああ、すまない」
エラムが気を遣って毛布を渡してくる。ダリューンはそれを受け取り、先にイシュラーナの肩を掴んで頭を己の膝に乗せてやる形で横に寝かせた。そして毛布をかけ、結ばずに下された紺の髪、頭を撫でた。思わず頬が緩む。
「…なあダリューン」
「何だナルサス」
ダリューンは緩んだ顔を引き締めて友人の返事に答える。友人ナルサスはやけに真剣な表情でイシュラーナを見ていたが、ダリューンもイシュラーナを見ていたのでそんな顔には気づいていない。
「…イシュラーナは、ヴァフリーズ老の本当の娘ではないよな?養子だよな?」
「養子だ。瀕死状態で倒れていたところを拾ったんだが、行き場所がない為にそのまま縁組をして娘になった。俺にとっては従妹にあたるが、イシュラーナが兄と呼んでくれるので俺も妹と呼んでいる」
「拾ったのは、パルス国内での話か?」
「いや、マルヤムとルシタニアの国境だ」
ナルサスが沈黙する。ダリューンは顔を上げ、ようやく友人が真剣な面持ちをしていることに気がついた。
「…何か気になるのか」
「彼女の赤い瞳…いや、深紅の瞳がな。いや、紺色の髪ももちろんなのだが、そっちに関しては何もわからないから言い様がない」
赤い瞳?ダリューンは首をかしげた。赤い瞳を持つ人間は少ないがいくらかはいる。ただ、その赤といっても多彩であり、イシュラーナのような深紅から紫に近い赤やビビッドな赤まで、様々だ。
「瞳の色なら、同じような色を持つ人間は少なからずいるぞ?」
「でも彼女の色味は、ごく稀にいる人間の赤みとは少し違うだろう」
「そうなのか?よくわからん」
「…だめだ、答えが出そうにない。当分忘れてくれ」
友人は情報が足らない、と今日のところは考えることを諦めた。ダリューンはそんな友人の態度に疑問を覚えたが、問い詰めたところで意味はないと、結局自分も妹のように寝ることを決めた。