一方その頃
「そういえば三井。去年だったかな……お前の事を随分探してた子と会ったけど」
覚えてるか?
バスケ部に復帰して1週間も経たない日の練習後、バカみてえに吹き出る汗を拭ってると、横にいた木暮が不意にそんな事を聞いてきて、その瞬間俺の頭の中で繋がった。点が。
「ひかりと会ったのか!?」
「ひかり……さんっていうのか?俺は名前も聞いてないけど……」
「なんも?連絡先とか住所とか、なんも聞いてねェのか!?」
「俺が聞いてどうするんだよ、お前が聞いてるならまだしも……もしかして会ってないのか?」
「会って…………」
木暮の言葉に、俺は言い淀む。
会いはした。厳密には、俺は会いに行ってない。何処にいるかも分からない上に、あの頃の俺は余裕がなかった。会いにきたのはアイツだ。探して、見つけ出したのはひかりだった。それを乱暴に追い払ったのが俺。
「さっきからうるせえぞ三井!ロッカーでギャーギャーとなんの話だ」
「前に三井の事を聞いてきた子の話をしてたんだよ、赤木も一緒にいただろ?」
「む……?ああ……あの、背が低い……」
「おめえにとっちゃ誰でも低いだろ」
あの、で出てくるのが背の話なのが役に立たねえが、十中八九ひかりの事だ。「てっきりお前の後輩かと思ったよ」と木暮は帰り支度をしながら言う。それは違う。あの後俺は当時2年のクラス名簿を片っ端から探したが居なかったし、しばらく再会した駅の周りをたむろってる奴らから聞いたが、ひかりは見つからなかった。
久瀬峰ひかりはそんな奴だった。
小学6年にもなって自分ちの電話番号も住所も郵便番号も「知らない」って平気で言うような奴だった──どうせすぐに引っ越して、丸々変わるから、覚えたところで無駄だから。今から思えばひかりはかなり捻くれたガキだった。小学校時代の友達とか俺を除いたら一人もいなかっただろうな。アイツはアイツなりの反抗期みたいなものに突入していたんだろう。ひかりは自分の身の回りのほとんどの物事に興味がない。気がついたらフッと消えてしまいそうな奴だったし、たぶん、アイツも"そう"なろうとしていた気がする。
そんなひかりがどうやって俺の所在を突き止めたのか──あの時は偶然だったんだろうが、俺が湘北に入学した事は当然ひかりは知らなかった。知らせる手段がないから。高校どころか中学も、あの日から俺とひかりは少しも関わる事なく生きてきた。俺とアイツの間にあるのは、たったひとつの約束だけ。
「それで、会えたのか?」
「あ?……なんでそんな気にしてんだよ」
「お前の事じゃなくて、あの子の心配かな。あの子、物凄く切羽詰まってて。俺に聞いてきた時……なんて言えばいいのか……こう、藁にも縋るような様子だったから」
「…………どうせ俺の膝の事も言ったのお前だろ」
「ああ……まあな。悪いとは思うけど、きっと知り合いだと思ったんだよ──聞いた時、自分のことみたいに悲しそうな顔してた」
「……」
「だからちょっと気掛かりだったんだ。女の子が夜出歩いてるのも相まってさ。無事会えますようにって……その顔だと、会えなかったか?」
「違うだろ」
赤木の声が割って入ってくる。この野郎、興味ねえフンイキしといて聞いてやがったのかよ。赤木は身支度をする手元から俺に視線だけを寄越して、呆れたようにフンと鼻を鳴らした。
「思い出せ木暮、去年のコイツがどんなんだったかをな」
「なッ……」
「え?去年の三井……………………」
木暮は目の前の俺を見ながら去年の……もっと言うならつい数日前の俺を思い浮かべると、みるみるうちに真っ青になる。エスパーでもなんでもねえが、今コイツの思ってる事はよーーく分かった。
「ま、まさか三井、お前、殴……」
「殴ってねーーよ!!」
「なぬ?」
「なんだなんだ、さっきから」
いつの間にか俺と木暮の周りに、帰る準備万端の後輩どもが寄ってきていた。さっさと帰れ。
「なんでもねェよ、ガキはさっさと帰れ」
「1、2年しか違わねーでしょ」
「そーだそーだ、殴るってなんだ、まあた懲りずに喧嘩すんのかミッチー!」
「お前はちょっと黙れ!話がややこしくなるだろ!」
「フーン、じゃあちゃんと話してくださいよ」
なんも知らねえまま犬みてえにキャンキャン吠える桜木はともかく、宮城の声は弾んでいた。宮城を睨みつけると、なんとなく事のあらましを知ってるようなニヤケ顔を浮かべている。
こいつ、こっそり聞き耳立ててやがったな。
▽
「つまり、グレてた時代に会っちゃったせいで数年ぶりに再会した女子を、な、殴って……」
「だから殴ってねえって言ってんだろ!」
「でも泣かせたんだろ?」
「ぐっ……それは、そうだけどよ……」
あの日。ひかりのビー玉みてえな目から大粒の涙が溢れる姿が今でも脳裏に焼き付いている──それこそ夢に出てくるぐらいには。ただの八つ当たりだ。あんなんになってる俺を見られたくなかっただけで、アイツが傷つくと分かって突き放した……いや、突き飛ばしてたな。
俺が認めると、勝手に話を聞いてきた奴らがワッと騒ぎ始めた。
「サイテーだぞミッチー!!」「女の子泣かすとかガチでヤバいっすよ」「見損なったぞ三井」「ちゃんと謝ったのか?」「いや謝るワケねぇでしょ、あん時の三井サンが」「最低」「サイテーだ」「馬鹿だ」「アホ」「おたんこなす」「お疲れした」「お、流川じゃあな!」「また明日なー」「ッス」
「うるっせーーな!!女子かオメーら!」
人が落ち込んでる所をやいのやいの言いやがってと叱るが赤木ほどの効果は無かった。木暮や赤木はまあまだいい。後輩ども……桜木と宮城のバカどもが俺を見る目は少しも反省してるようなものじゃない。こいつらは日に日に俺に態度がテキトーになってやがる。
「今オレらの話はどうでもいいんスよ、今は三井サンの落とし前の話をしてるんです」
「そーだそーだ」
「お前らずっと俺の悪口しか言ってねえぞ」
「ま、まあまあ……ほら、もう夜も遅いし、こんな所でずっと話こんでても埒が明かないだろ?今日の鍵閉めは俺だから、早く出ろよ」
木暮が間に入り、ひとまず騒ぎは一旦終わった。つまらなさそうな顔をする後輩どもを横目に俺もバッグの中に詰め込んでいく。体操着にタオルにまだまだ新品みてえなバッシュ。高校入学を機に新調してから押し入れに押し込められていたエナメルバッグに、今の俺──それをまったく知らないままのひかりの泣き顔が、喉に引っ掛かった魚の小骨みてえに留まり続けている。いや、小骨どころじゃない。もっと四方八方棘が生えた、鉛みてえに重たい塊が、心臓に張り付いているようだった。
今、なにしてんだろうな。
何度目か分からない、暇を持て余した脳みそを絞って出したような本音。徳男たちとバカやってる時も、家に帰らねえで水平線から朝日が昇ってくんのを見てた時も、もううんざりするほど瞼の裏っかわに蘇ってくる。その度にどうしようもなくなって、ひかりの姿を探してた。
「なんだってやんのにな」
「ん?」
「アイツと会えるなら……謝るためなら」
「……」
並んで横を歩く木暮は、何も言わない。慰めの言葉も、責めるような事も言わない。前のバカどもがうるせえから聞こえなかったのかもしれねえ……それならそれで、良い。ただの情けねえ独り言だ。土下座なんて安いもんだ、夏のインハイが終わった後だったら骨が折れるまで殴られてもいい。どんな罵詈雑言を浴びせられようが、なんだっていい──そんな真似をアイツがするはずもないのに。
▽
「よっミッチー」
精が出るねー、と拍子抜けするほど軽い口調で休憩中に話しかけてきたのは桜木のダチ。名前はたしか、水戸洋平。俺をボコボコにぶん殴った後輩。
「……おう、桜木ならあっちにいるぞ」
「ん?あー、その前にアンタに用があってさ」
「……俺に?なんだよ」
あの一件以降、こいつとサシで話した事はない。桜木とすれ違う時、他のダチと一緒になって「おっ、ミッチー」と声をかけてくる程度だった。コイツは誰にでもそんな感じだが、言っちまえばこいつは桜木のダチというだけで、俺を含め他のバスケ部の奴らと桜木抜きで話している所は見たことねえ。そんな奴が改まって俺に話って、なんだ?
「いや、単なる伝言なんだけどさ」
「なんだよ!クラスの奴か?先公か?」
「んー……部外者かなあ。この前の試合、ナイスプレーでしたって」
「この前の、って──」
試合といえば、つい昨日の、決勝リーグをかけた翔陽との試合だ。水戸たちも最前列で桜木の応援に行ってたのをよく覚えてるが、その列には赤木の妹らしい女子とそのダチぐらいしか居なかったが……。徳男か?いや、見てたら直接言ってくるしな……。
「誰だ?俺の知り合い?」
「んー、匿名希望だってさ。うちのガッコの人じゃないけど」
「うちのじゃねえって……」
ますます分かんねえと、記憶に残っている試合を見にくるような物好きの顔を探そうとして、唐突に、1人だけ、頭の中に浮かぶ。
「──水戸、そいつ、俺のこと前から知ってたか?」
「さあ」
「俺の……俺のスリーを綺麗だのなんだの言うような、変な女だったか!?ひかりって名前の!」
俺が詰め寄っても水戸はニヤニヤした顔で「どうかな〜そんな名前だったかな〜]」とはぐらかしてマトモに答える気はない。
「オイ!真面目に答えろ…………ください!!こっちは必死なんだよ!」
「あいにく口止めされててね」
「それは認めたようなモンだろ!なんでもっと早く教えてくれねーんだよ!」
「オレらも帰り際それだけ伝えるようお願いされただけなんで、つか、メガネ君が更衣室入れてくれませんでしたから」
翔陽戦の後、誰が一番最初に潰れたのかは覚えていない。決勝リーグ進出の高揚感と試合後の疲労が混ざり合って、ロッカールームに入るなり糸が切れたように身体が重くなった。サポーターを外して、靴を脱いだあたりから暫く記憶が飛んで、目が覚めた時は後の試合が後半戦に入りかけた頃だった。気を利かせて更衣室に入れなかった木暮のことを恨むつもりは毛頭ない。ひかりが俺たちが出てくるまで待っていなかったのは、俺と直接会いたくなかったってコトだ……コイツに伝言を頼むぐらいには。事情があるのか、いや事情が無くても、会いたくはねえか。
「……他には……なんか言ってなかったか?なんでもいい」
「なーんもない。本当だぜ?つか、俺があの人の連絡先知ってたらアンタ怒るでしょ」
「おこっ……………………らねーよ!ガキじゃあるめえし!」
「そスか。でもマジでそれだけだったんだよなァ…………俺も本人に言ったらどうかって言いましたけど、もう会うこともないっつってましたし」
「は?」
今なんて言った?
会うこともないって、なんだ?
これから先二度と俺と会わないつもりでいんのか、ひかりは。水戸の言葉を理解すると同時に、また嫌になる程繰り返された疑問が沸いて出てくる。なんで──かは決まってる。俺のせいだ。俺がバカなことを口走ったせいで、俺が傷つけたせいで、こうなった。
アイツがどんな気持ちで俺を探しに来たのか、うっすら分かっていた。ガキの頃に交わした約束とも言えないなにかを無邪気に信じていた、だからこそ無性にイラついた。うちのめされた時に隣に居なかったくせに、投げ出した時に目の前にやってくる、心臓の内側を刺してくるような光の塊だった。俺たちみてえな不良にいっさい関わったことも無さそうな綺麗な顔。それが俺の言葉に傷ついて歪んでいくのが分かってても止めなかった罰。たった一言だけ言い残して、アイツはもう見切りをつけたのだろうか。決勝リーグどころか、もうこの先の人生、俺と関わらないつもりで、あの会場に来たのか。
「………………………」
「…………」
「……………ふ………」
「ふ?」
「ふざけんじゃねえぞ……」
身に覚えのある感情が、胃のあたりからフツフツと沸いて、頭のてっぺんまで上っていく。喧嘩特有の、一瞬で燃え上がらせるような熱じゃない。病院のベッドの上で月刊バスケを読んでる時のような、面食らっている目の前の水戸にブン殴られまくった時のような、怒りとも焦燥ともつかない煮えたぎった鍋の中みてえな感情が拳まで伝わって、汗を拭っていたタオルを力の限り握りしめた。
ふざけんな、一丁前に言い逃げしやがって。そんなんで俺が諦めるとでも思ってんのか。昔っからそうだ、ひかりは初めて会った時から、俺の気持ちを少しも考えた事が無い。勝手にコートにズケズケ踏み込んだかと思うと、俺に踏み入らせようとしない。そういう所が嫌いなんだよ俺は。
「集合ーーー!!」
いつの間に時間が経っていたのか、赤木の号令とホイッスルの音が響く。水戸は音を鳴らして集まりに行く部員の背中と俺を交互に見て「じゃ、確かに伝えたんで」といかにも人工的な笑顔を浮かべ、踵を返して歩いていった。引き止める暇もなく俺も戻り、また練習が再開する。練習と試合で感覚は戻ってきたとはいえ、体力と筋力は中3の俺とは比べ物にならない程落ちている。しんどいなーっと肩で息をする木暮の横でほんのちょっとの相槌も打てないのが今の三井寿だ。
情けねえ。俺のなにもかもがダサすぎる。だが、もう失うモノも無い。俺を形作る言葉の通り、足掻いて足掻いて、追いかけてやる。
「……ぜってえ諦めねえ」
「ん?」
「木暮、俺ァ決めたぜ」
「なにを?」
ひかりを。