だから、これでおしまい


 お前、お前のガッコにダチいねーの?いつも1人だよな。
 別にいいじゃん、1人の方が気楽。演技するの、疲れるし。
 えんぎ。
 うん。優等生の演技。三っちゃんは分からないだろうけど、転校生はいい子じゃないといけないの。愛想が良くて優しくて気配りができて、もう出来上がってる人間関係に踏み込みすぎない程度にね。
 フーン。……じゃあ今のお前はなんなの?
 今の……?……バスケを頑張る私……?
 …………そうかよ。
 ……ちょっと、なんでニヤニヤしてるの。



 夢を見た。

 最悪な夢。




「なにその顔」
「蚊に刺された」
「ひかりんち蚊100匹いんの?」


 私はいつも通りに起きて、いつも通りにご飯を食べて、いつも通りに登校した。
 推薦狙いにとって欠席は落とし穴である。志望校が絞られ、かつ生徒の成績が横ばいだと普段の生活態度が選考基準に含まれてくる……という噂が、我が校ではまことしやかに囁かれている。真実はさておき、ただでさえ2学期の中間テストも近いのにサボタージュなんて、良い事よりも悪いことの方が比重が大きい。たとえ、なにがあろうとも。

「いや、やばいよ。マジでヤバイ。鏡見たの?つかそれで公共交通機関に乗れたことがすげーわ」
「見たし乗った。ちょっと腫れてるだけ、すぐに引っ込むし」
「それにしたって氷とか当てた方がいいよ!そんなに泣くなんてさあ……なにがあったの?」
「な……………いてない」

 嘘!と幸子とチヒロの声がぴったり揃う。この2人の意見がドンピシャになるのは珍しいなあ……としみじみ感じ入っている場合ではなく、私はどうにかして虫刺され以外の理由を捻り出さなくてはいけなかった。

「…………もしかして、"三っちゃん"絡み?」


 え?なんで分かるの?





「へえー……それでようやく高校が分かったと思ったらひかりのこと忘れてて身体2回故障した挙句ヤンキーにドロップアウトしてたんだ」
「ドロップアウト"ってい"わないで!!」

 幸子の残酷な物言いに、ひかりは悲痛な声で否定する。事のあらましを話すだけで両目から大粒の涙をぼろぼろ溢しているのに、その原因をよく庇えるものだとチヒロは呆れながら追加のティッシュをひかりに手渡した。「あ"りがど」と涙声で受け取ったひかりはけっこう盛大な音を立てて教室に鼻をかみ、何人かのクラスメイトが振り向いた。
 というよりひかりが泣き出したあたりで「なんだなんだ」とギャラリーが増えてはいたのだが。

「え、ひかりちゃんどしたの!?お腹痛いの?」
「どっちかっていうと心かな」
「まじか。なにが効くんだろ。救心?」
「それは心臓だよ」

 クラスメイトが教室で号泣するシーンはそうそうお目にかかれるものでは無く、入れ替わり立ち代わり、ひかりの机の周りに人が集まる。ひかりはそれが恥ずかしいのか嬉しいのか情けないのか、「大丈夫」としか言わない。そのせいで状況説明は幸子とチヒロが担う羽目になった。

「失恋だよ」「え!?!?」「マジ?うそ、ひかり彼氏いたん」「誰なにどこどこ、ウチら知ってる人?」「なわけないじゃん、どこ高?つか同年代?大学生?」「ちーがーうって!幸子コラ!久しぶりに会う……昔馴染みの子がグレててショックだったんだよ」

 色恋沙汰になると瞬間湯沸かし器かの如く盛り上がるのは、どの学校でも同じ──むしろ、女子だけで構成されたこの社会においてはより狂気的になるのかもしれない。チヒロの軌道修正により一瞬鎮火しかけたが、「性別は?」の一言が致命的だった。チヒロは口をへの字にまげて、降参の合図をするように「……男」と答えた。仕方ないだろう、側から見ると、完全にそうなのだから。

「やっぱり!!」「いつの間に青春してるじゃんね」「いーなーいーなー」「グレるってなに?ヤクザに入ったとか?」「そんな事されたらたしかに泣くわ」「付き合ってたの?昔馴染みだしずっと好きだったの〜!?」「甘酸っぱ〜〜!!いや、つかそんな彼がグレてたら100年の恋も覚めるわな」


「ちがーーう!!」


 下を向いてめそめそと泣いていたひかりがガバッと起き上がる。泣き止んだかと思ったが赤く腫れた両目からは尚も涙が溜まっていて、こぼれ落ちる時を今か今かと待っていた。

「グレるのは仕方ない!確かにキツいよ?なんか怖い人たちと一緒にいて煙草の匂いもしたし缶ビールも転がってるしさあ〜〜でも人生なにが起こるのか分かんないし、価値観が変わるのは普通だし記憶なんて忘れるものだし。個人の選択にとやかく言う権利は私にはないからしょうがない!分かる?その点はもう良いの割り切ったの、悲しいけど。今は私があーだこーだ理屈つけて綺麗事言ってたのにそれを本心では分かってなくて勝手に理想の三っちゃんを作り上げた挙句に押し付けて傷つけたのが情けなくなってるの!てか失恋つったの誰!?」
「幸子」
「絶交!」

 そう吐き捨てると、ひかりはまた"三っちゃん"を思い出してか手元のハンカチをまた目に押し当てた。もう涙も鼻水も出尽くしたような勢いだが、この様子だと当分は落ち着きそうに無さそうだ。クラスメイト達も流石に不憫に思ったのか背中をさすったり、ひかりの机の上に飴やら一口サイズのチョコレートやらポケットティッシュやらを献上していた。

「こんな調子だと授業も無理じゃない?」
「…………ん"ん、だいじょぶ……授業は出なきゃ……」
「いや無理だって!せんせーには私たちが言っとくから保健室で休んでなよ」
「思い出して泣くってもうよっぽどだよ」
「ていうか、ねえ……怪我とかしてない?大丈夫?」

 ひかりは涙でビショビショになったハンカチから視線をチヒロに向けて、ゆるく首を横に振った。否定はするけど、おそらく怖い思いはしたのだろう……相手はヤンキーだ。不良だ。格闘技に縁もゆかりもないひかりからしたら、到底かなう相手じゃない。チヒロの中で"三っちゃん"への好感度がものすごい音を立てて急降下していくのを感じた。

 あーあ。
 もっと甘酸っぱくなると思ってたのに。

 あるいは、報われてほしかったのに──嗚咽を漏らす友達を見て、チヒロのささやかな幸せの芽は摘まれてしまったのだと痛感する。何回も聞かされた優勝を決める土壇場のシュート。まだ幼さの残る男の子の写真。大切に仕舞った宝物を聞かせるように話す子どもっぽい約束は、聞いてるこっちがむず痒くて仕方がない。
 一回だけ見せてもらったひかりのスリーポイントシュートはきれいな弧を描きネットを揺らした。

「……ほら、いったん横になろ。ついてくからさ」

 とチヒロが立ち上がると、幸子も席を立つ。幸子もまた苛立ちと悲しみが混ざり合ったような表情をしていた。きっと今の自分も、同じ顔をしているのだろう。
 




 あの日から私はシュートの練習をやめた。


 理由は簡単、辛いから──バスケットボールを見ると、勝手に心がモヤモヤして痛くなる。心の健康が損なわれるので、練習もやめて、家に積まれていた月刊バスケットボールは一冊を残して全部捨てた。元々試合には興味が無かったから、良い機会だ。
 残念だったのは彰の試合を観にいけない事だった。しばらくバスケ自体から距離を置きたいと電話越しで話した時の、少しの沈黙を経て「ん、わかった」と言わせた時の申し訳なさったら、授業を休んだのと比較にならない。

 幸いにも秋は運動会に文化祭にハロウィンに全国模試に中間テストとイベントが盛り沢山だったので、自然と……三井君のことは昔々の遠い思い出として処理できる準備はできていった。幸子は失恋と言ったけれど、あながち間違いでも無かったのかもしれない。はたから見たら偶像崇拝のようだっただろう。
 太陽にも寿命があるのに永遠なんてのは存在しない。
 子どもの頃の夢から醒めるように、苦い思い出と一緒に、私は少しづつ折り合いを付けられている、気がする。それが良いのか悪いのかは分からないけれど、そうしないとどんどん駄目になっていく気がした。

「もうすぐ冬休みかあ。今年のクリスマスはどうしようね」
「ひかり、彼氏と計画立ててる?」
「え?いや別れた」
「は?」
「え?」

 2人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔……の図例として教科書に載せても良い顔をしていた。
 失恋なんて忘れてナンボ!新しい恋探そ!応援するからっ!とクラスメイトたちから背中をやたらめったら押され始めたのがテストも終わって文化祭の準備期間に入ろうという時期。年に一度の文化祭はとりわけ盛大に行われ、生徒側からの招待としてなら一般にも解放される。かつ姉妹校の男子校にいたってはその日に限らず無礼講の後夜祭もお互いフリーパスなものだから、その期間のカップル成立数は、まあ、お察しの通りである。


「一年の時から、好きでした。オレと……付き合ってくれませんか」


 今となっては元カレの男子Aが顔を真っ赤にして、でもまっすぐ私の目を見て告白してきたのが10月末。一体なにが彼の恋愛的琴線に触れたのか分からなかったけれど、詳細は省くが私の預かり知らぬうちに彼をときめかせていたらしい。それから彼とは健全かつ良好なお付き合いをさせていただいてた──あくまで、主観的にだけど。

「決め手は?」
「なんかヤバめな雰囲気になったから」
「大丈夫なの、それ」
「ファミレスで別れ話したけど、落ち着いてたから大丈夫だと思うけど……」

 彼に非はない。たぶん、どっちが不誠実かと言われると私のほうなのだ。
 気持ちは嬉しいけれど、恋をする気分ではないし、第一君のことをよく知りもしない上に知り合い以上の好意が無い。それでもいい。俺の気持ちも、好き嫌いもこれから知ってほしい……と言われた手前どうしようもなく。そんなスタートから1人の友人……以上恋人未満……のボーダーラインを超えずにいたのは、私にその気がなかったから。ただ、誰かといると、その人の事しか考えずにいられるから……忘れるために利用していたからだ。
 だから本気で好きにはなれない。手を繋いでもハグしてもキスしても、男の子ってリップクリームとか付けないのかなぁって思うぐらいだった。最低だと思う。自分が。

「ひかりが一昨日も呼び出されてたのはそういう事かあ」
「それなんだけど、マジでヤバいよ、『久瀬峰ってさあ、今フリーなんだってぇ?』とか聞いてくんの、半笑いで。その言い方でよくOKされると思ったなって感じ」
「最近は不良っぽいのが流行ってるんでしょ、知らないけど…………………ゴメンって」

 チヒロが他人のプリンを間違えて食べた時のような、バツの悪い顔をして手を合わせたので、「別にいいよ」と返した。禁句じゃないし。今の私は不良だバスケだ大会だと言われても無闇矢鱈に心を乱されたりはしない。リナにバスケ部の彼氏ができた時も動じずに祝福した鋼の心を持っているのだ……とはいえ話も脱線した事だし、私は「そういう事だから、クリスマスはいつでも空いてます」と改めて言う。

「なんだかんだホームパーティが一番良いまであるよね」
「彼氏も居ないしねえ」
「今年は……ひかりの弟クンって受験?」
「来年度ね。まあずーーーっと勉強漬けだから、あんまり変わんないけど」
「じゃあ私の家に招待してしんぜよう。……今年のケーキは4号にしようね。マジで」 

 12月。世間はクリスマス。去年はチキンをお土産に幸子の家でケーキを好き勝手作って、既製品の有り難みを知った。クリスマスだからと7号の型にしたのが本当に愚策だった──幸子の兄弟が居なければ私たちの胃と舌はお正月を迎えられなかったと思う。私と幸子は「勿論」と即答した。友達と過ごすと言っても、中学受験を控えた弟にとってクリスマスは貴重なご褒美の日だ。25日にして、クリスマス・イブは家族とのパーティ。終業前にも部活のプチパーティ。改めてみるとパーティ尽くしだね、と笑ってしまう。「来年は私たちも集まれるか分かんないし、今のうちに楽しまないとね」とチヒロがしみじみと言う。来年は高校3年生──受験生だ。まだあと1年あるくせに、今この時が唯一、「高校生らしく」過ごせる最後の時間かもしれない。
 
(最後の、最後の…………)

 12月。世間はクリスマス。
 バスケットボール界はウィンターカップ。
 
「今日、なんか寒くない?」
「冬だからね」

 いや意味無、今のやりとり。あはは、と笑うチヒロの軽い声が空気に融ける。







 携帯の画面をよく見ずにいたのが悪かった。


 冬が過ぎて、春になって、私はデート相手を待っている。
 高校最後の年と自覚すると、またそういう思いが湧き立つのだろうか。今度は同じ部活同士で話も交流もそれなりにこなした同級生から告白された。半端に繋がりがある以上断れず──とはいったものの、友人としては嫌いじゃない、そんな人だった。けれど友人の域から出ないのは、それ以上踏み込んだ事がないから。付き合うことで親愛が男女のそれに変わるなら、それはそれでいいのかも──という、間違っても本人には話せない打算的感情でデートの約束を受け入れ、電話番号も交換した。
 そんなことがあったから、着信相手はその彼だと思ってしまった。電車が混んでるのか、寝坊か、人混みで私が見つからないのか。考え事をしながら通話ボタンを押したせいだ。

「もしもーし!!そちら久瀬峰ひかりさんのお電話で間違いないでしょうか!?」
「えっ?あ、はい?」
「よかった!あたしの事わかる?リナです!」

 電波に乗って私の鼓膜を攻撃する声には確かに聞き覚えがあった。クラスメイトのえくぼが可愛い笑顔を思い浮かべて脳は機械的に納得するけれど、私の感情はまったく追いついていない。

「なっ、なんでこの番号知ってんの?」
「幸子経由!勝手に聞いたのは本当にゴメンね!でも言わないと絶対後悔すると思って」
「後悔っ、て──」

 耳の奥で、心臓の音が聞こえた気がした。
 身体を巡る血が一気に沸騰したみたいに、熱い。聞きたいのに、聞きたくない。脳も感情も同じことを言っている。それでも同じぐらい、リナの声を、言葉を少しも取りこぼさないと神経を尖らせている自分がいた。



「あたし今バスケのインハイ予選会場にいてさ、彼氏の応援に。それで、えっと、ショーホク高校に──三井って人がいるんだけど!」



 もしかして、ひかりちゃんが言ってた人じゃない?

 
 なんで。

 なんで今更。なんで、今更!

 ミキサーにかけられたようにグチャグチャになる感情の渦で、ようやく言語化できたのはソレだった。怒りかも落胆かも分からない。今更、から始まる言葉も浮かばない。それを考えられるキャパシティは潰れて消えた。考えるべきこと、優先すべきことが多すぎて頭も追いついていないのだ。

「い、」
「い?」
「今なんで!そんなコト……!今、今から私……!い、今もう……」
「なに!?電波悪い!?ちなみにまだ試合は始まってないよ、あと1時間……もないけど。今どこにいるの!?」
「う、……今、今は渋谷だけど」

 人を待ってるなんて言えなかった。リナに余計な罪悪感を与えたくはなかったし、なにより私の足は、既に人の流れに逆らって渋谷駅の構内に入っていたからだ。待っていなくてはいけないのに。行く必要がないのに。なんで、なんで、なんで。

「リナは、なんで……」
「……バスケの授業、覚えてる?あんまり話したこと無かったけど、シュート上手いねって言うと凄い嬉しがって、誰よりも上手いお手本がいるって話してたじゃん」
「……うん、」
「有名な選手かと思ったらただのショーガクセイでウケたんだけど」
「……」
「でも、楽しそうでさ。それが……あんなにベソかいてずーっと悲しんでて、シュートの練習もしなくなって、自暴自棄になってた。それがあたし、なんか、悔しくて……ひかりちゃんの気持ちを考えてないわけじゃない。ホントは予選始まった時から気づいてた……知らない方が幸せなんじゃないかって」

 もう私にとって、三井寿は過去の思い出だ。
 行って、見て、会ったとしてどうするの?三井寿はもう私のことを忘れてるのに。小学生の私も、きっと高校2年生の私も、あの約束も。私の友達だった子たちと同じように、遠くに行けば、声を交わすことも無くなれば消えていく。そんな存在のはずなのに、私は5分後に来る電車を待っている。

「ひかりちゃん?もしもし?電波がちょっと悪いのかな、聞こえなくて」
「……ううん、リナ。大丈夫。もうすぐ電車が来るから切るね。教えてくれて、私のこと考えてくれてて、嬉しい。ありがと」
「……うん。でも、辛かったら……」
「大丈夫。会いに行くつもりはない。そんな資格、ないし。……リナ、私は──」



 この世でいちばん、きれいなものを見に行く。



 まるで吸い込まれるように。「そう」と決められたように。しがらみから解き放たれたようにボールは弧を描き、ネットを揺らした。

「うわああーーっ!!!入った!!」
「6点差!!フリースローとあわせて一気に6点縮めたぞ!!」

 スタンドは埋め尽くす人の熱気。笑ったり、驚いたり、焦ったり、視線も心も釘付けにされている。鼓膜を震わせる歓声は、湘北のゴールで更に膨れ上がった。それでも静かに感じるのは、私が私のことで手一杯だからなのか。

「はっ、はぁ、はあ、は……」

 息が上がってる。全身汗びっしょりで、おろしたばかりの服が肌に張り付いて気持ち悪い。流れる汗が目にかかって視界がボヤける。よく考えたらこれ目から流れてるのか?どうでもいいか、よくないけど、これじゃ彼が見えない。もう少し歩かなきゃ。

「おおっ!7番がボールを奪ったぞ!」
「湘北の速攻だ!!」

 ふわふわしておぼつかない足を動かす。階段を降りて、最前列へ。目の前のコートを白いゼッケンが駆け抜けて、右に左に目まぐるしくボールが回る。


 ──この線だ!この線踏んでたら意味ねーんだよ。


 パスを受けた14番が、一歩下がる。
 エリアの外。リングをまっすぐ見据えて、肩の角度は並行に。身体は芯が入ってるみたいにまっすぐ、ブレない意識。手首を使い、アーチを描くように──大事なポイント、過分な力は必要ない。左手は添えるだけ。

「──入る」

 1秒にも見たないボールの軌跡を見守る静寂の中、ゴールを確信して、14番が握りしめた右手を高く振り上げた。
 あとはネットが揺れる音──そして、身体中で叫ぶような、割れんばかりの歓声。
 気が抜けたのか、手すりに身体を預けて、ずるりと膝をついた。服が汚れる事も、周囲の視線もどうでもよくて。今はただ、グチャグチャになった感情の渦が、ひとつのかたまりになって、私の中にすとんと落ちて、それに浸っていたかった。きれい、かっこいい、がんばれ、まけるな──よかった。

 足が治って、続けられててよかった。
 バスケ、嫌いにならないでよかった。


「よかった……」


 歓声は続く。試合はもうすぐ終わる。
 最後の夏は、たぶん、もう少し続く。






 キャップを開けて、一口だけ飲む──どころじゃなく、全力疾走やら大号泣やらですっかり干からびた身体が求める水分量はペットボトルの半分以上だった。
 ごきゅごきゅごきゅと喉を豪快に鳴らして、「ぷはーっ!」と息継ぎをする姿は到底女子高生には似合わないものだったけれど、私がいるのはロビーのベンチで、更に言うなら隣にいるのはリナだけなのでもう恥もへったくれも無い。口から漏れた水をハンカチで拭って深呼吸する。いい飲みっぷり、とリナが呆れたように言った。

「また泣いてたでしょお」
「……まあ、けど今度は嬉し涙だから、大丈夫」
「そんなに泣くともう映画の予告でも泣くようになっちゃうよ」
「なにその脅し」

 小さく吹き出すとリナも「だってなんか恥ずいっしょ」とクスクス笑った。
 今日は予選の山場、決勝リーグへ向かう一戦だったらしい。1日に4校決めるので湘北対翔陽の試合が終わったら間髪いれずに次の試合が始まる。あのまま蹲っていると流石に人を呼ばれそうだったので、近くに座っていたリーゼントの、なんだか不良っぽい子の手を借りてなんとかロビーまで歩いていくと、丁度よくリナと合流できた。「また泣いてる!!」と叫ばれベンチに座らされたのがついさっき。地響きのような歓声を遠くに聞きながら、いくらか穏やかなロビーで涙を拭う。

「リナはいいの?彼氏の試合……」
「ん。武里だからいーの。……ごめんね、急に」
「謝んないで。結果的に見れてよかったから」

 そう言うとリナはほっとした様子で「なら、よかったね」と言った。可愛い。

「ホントに直接言わなくていいの?」
「いいよ。話すこともないし……私があのシュートに勝手に憧れて、勝手にきれいって言ってるだけなの」
「あたしは言いたいことあるけどね。理由はどうあれ女の子泣かせたんだから焼き土下座のひとつやふたつ……」
「罪が重すぎる」

 というか、あの一件も普通に忘れてそうではある。去年の事なんて私もよっぽどの事がないと覚えてないし、もし忘れていたとしたら濡れ衣で焼き土下座だ。さすがに哀れに見えてくる──と話すと、なぜかリナはとんでもない不満を顕にした顔で「ま、ひかりちゃんがいいならいいけどさあ……」と愚痴るように漏らした。

「……あ、さっきのオネーサン」

 ふいに、男の声がする。その方向へ視線を向けると、さっき手を貸してくれたリーゼントの不良君(と便宜上そう呼ぶ事にする)がひらひらと手を振っていた。彼の側にいる数人の友人らしき子とも目が合う……負けず劣らずの不良感だが、そこにはあの日対峙した不良たちとは違う、どこかのほほんとした気安い雰囲気があった。私は思わず立ち上がり、不良君の元へ歩く。

「あの時はありがとう、すごく助かりました」
「お礼なんていいっすよ、立ってて平気なんですか」
「心配してくれてありがとう、気分が悪くて泣いていたわけじゃないから大丈夫!君も応援に来てたのに、時間を使わせてごめんね」
「はは、いーんスよ。オレらは冷やかしみたいなもんだから」

 なあ?と不良君は友人たちに振り向くと、彼らは揃ってうんうんと頷いた。その動きが見事にシンクロしていて、漫才でも無いのに思わず笑ってしまう。

「ふふ、そうなの。じゃあそんなに気にしないことにする」
「そうしてください。……じゃ、オレらもう行くんで」
「あっ…………待って!」

 ことの他大きな声が出てしまい、不良君は「んっ?」と目を丸くする。

「えっと……その。今日はどっちの応援で来たの?」
「どっちのって……湘北スけど。オレたちのダチが試合に出たんです」
「湘北の選手と会ったりする?」
「まあ、はい……?」
「じゃあ──湘北の14番の……選手に………きれ……ナイスプレーでしたって。伝えてくれる?」

 不良君は呆気に取られた顔のまま目を瞬かせる。きっとこんな図々しいお願いをされると思っていなかっただろう……けれど、驚いてたのは最初だけで、「──いいの?本人に直接言わないで」と微笑んだ。それは数分前の彼とは違う、やけに大人びた笑顔で。彼とはまったく話したこともないのに、こちらの事情をあらかた知っているようなそれだった。

「──いいの。彼は私の事知らないし、もう、会うこともないから」
「……」
「助けてもらった上に、図々しいお願いをしてごめんなさい。強制力はないから忘れてもいいよ」
「はははっ!なんだそりゃ。……一応聞くけど、名前も言わないでいいの?」
「うん。匿名で」

 そう言うと不良君はなにか考えてるのか斜め上に視線をやって、また私に視線を合わせたかと思うと朗らかな笑顔で「じゃあオレに教えて」と言った。

「……なにを……?」
「名前。オネーサンの」
「み……14番の人に、言ったりしない?」
「しないしない」
「無闇矢鱈に有る事無い事言いふらしたり、私の名前を使ってワルイ事しようとしない?」
「神に誓ってしません」
「……(まあ神奈川に来ることもあんまりないし、名前程度なら大したこともできないし、そういう雰囲気じゃなさそうだし、いっか)……久瀬峰ひかり。えと、君は?」
「洋平。水戸洋平っす」

 不良君改め水戸洋平君は満足そうに口角を上げると「じゃ、忘れてなきゃ伝えておきます」と言ってよたよたと出口へ進路を戻した。他の男子たちも「おつしたっ」「じゃなー」とフランクに手を振って会場を後にした。
 うん。これで満足だ、本当に……リナの元へ戻ると彼女はまた物凄い形相で私を待っていた。

「またのこのこ不良に話しかけにいって〜!」
「またって、あの子は私のこと助けてくれたから大丈夫だよ」
「助けられただけで良い人判定しないの!」
「それに入口に警備の人いたし、なんかあったらリナが呼んでくれるだろうと思って……」

 え!?あたし頼りなの!?とリナの怒りとも呆れともつかない、多分どっちも同じぐらい含まれていそうな声がホールに響く。ちらりと腕時計を見ると、もうすぐ第二試合の前半戦が終わろうとしていた。泣くだけ泣いたせいで頭が少し痛い。まだ試合の余韻が抜けない選手みたいに、怠いくせに体の奥がじんわり熱くて落ち着かなくて、時折外から吹く風が涼しかった。
 失くしたパーツを見つけた時のように息を深く吐いて、ベンチから立ち上がる。足は思いの外軽く、少しだけ頼りない。
 見つけたパーツは欠けていて、けっして昔のように綺麗にはまるわけないけれど。

「じゃあ私、そろそろ行くね」
「もう少し休まなくて大丈夫?一応、救護室があるけど……」
「そんなに心配しないで!確かに泣きすぎて疲れてるけど、思考はクリアだから」
「……わかった、気をつけてよ」
「うん、じゃあね、リナ」
「うん──また学校で」


 それでいいよ。


 それでもきっと、歩いていける。思い出があるから。
 履き古したスニーカー。Tシャツにジャージ。
 駅に向かうバスに乗り込んで、会場側の席に座る。
 プーー、と電子音が鳴って、アナウンスと共に扉が閉まる時、小さくじゃあねと呟いた。返事を待たず、会場は遠くなる。








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