これまでのあらすじ・急
足が動かなくなるって、どういう感覚なんだろう。
水っぽくなったコーヒーを飲んで、ずっとそのことを考えている。
(どう言い訳しようかな……)
塾の時間はとっくに過ぎているのに、私が腰掛けているのは硬くも柔らかくもないソファの上で。ノートも参考書も広げずただ窓に寄りかかって、スピーカーから流れるしっとりとしたメロディを耳に流し込んでいる。
体調不良かな、諸事情によろうかな、いや、今はそんな事どうでもいいな。体が重い。どう受け止めたらいいのか分からない。嫌な予感はしてたけれど、最悪の事態にならなくてよかったけれど。どうしようかな。
窓の向こうは大通りから離れていても色とりどりの光が点滅したり、左右に流れていったりしている。店の入り口に近いせいか、エンジン音も空回りしたような音楽も浮かれた人の声も、筒抜けだった。
迷子になっている。
眼鏡君と別れてから、家への帰り道を忘れたように。道標を見失った旅人のように。最寄り駅までどうやって行ったのかも覚えていないし、駅の時間表を見るふりをして、ずっと文字と文字の空白を見つめていた。景色の輪郭がうまく掴めず、人にぶつかって、それもどうでもいいと思えてしまう。自分で思っているよりもずっとショックだった事に、自分でおかしくなりそうだったけれど、今私には何かに笑うだけのエネルギーすら持ち合わせていないみたいで、肉の皮だけ残っている気分だった。蝉の抜け殻みたいに。
足、膝か。膝の故障。入院のちに復帰失敗。その言葉が邪魔して正常な思考ができない。記憶が掘り起こされて固定されているみたいに、今私の頭には三っちゃんの姿が──あの時出会った、男の子の姿が浮かんでいる。
この世でいちばん、綺麗なもの。
ロジックはない。直感だった。バスケなんて見たことも興味も無かったのに、あれが完璧なものなのだと見せつけられている気分になった。
ただ投げて、とんで、ゴールポストが揺れる、それだけで充分だった。それだけが雄弁にものを語っていた。
「……会いたいな……」
ぽつりと。口について出た言葉が、本当に私の脳から出力されたものか、疑いたくなる。会えなくてもいい。彼が見れたらそれでいい、私のこともどうせ忘れているだろうから──友達に散々言ったその言葉が単なる綺麗事であると受け入れるのが恥ずかしい。迷惑。最悪。どうせ忘れてるのに、よしんば覚えていたとしても、バスケに関することが三っちゃんを傷つけてしまう可能性もあるのに、なんて言葉をかけたらいいのか分からないのに。
それでも会いたい。
一度でいい。
金輪際会えなくてもいい。
自分勝手で醜い願望が、消えない。
▽
あのままダラダラ悩んでいるわけにもいかず、なんとか立ち上がってカフェを後にした。明日も普通に学校がある。帰って怒られてまたいつものように登校しなければいけない。時間は待たないから、うかうかしてると電車も無くなる。それだけは避けたかった。
海の近くだからなのだろうか、外は少し風が吹いていて肌寒く、自然と足が速くなる。店を、ビルを、コンビニを、よく分からないビカビカした建物を通りすぎ、駐車場の前を通り過ぎる──が、駐車場から騒がしい人の声がして、思わず視線を向けてしまった。
街で時々見かけるリーゼントに、上着がやたら短くて、ウエストの位置がやたら低い学ラン姿の男子たち。その格好では許されないニコチンの匂い、足元にいくつも転がっている……缶。
彼らがいわゆる「不良」なのだと気づいた瞬間前を向こうとしたが、そのうちの1人と思い切り目が合ってしまった。しかも1番ガラ悪そうな奴に。
「なに見てんだ、オイ!」
「……、」
逃げればいいのに、語気に怯んで立ち止まってしまった。
不良に絡まれた時ってどうすればいいんだろう。不良はおろか不良に絡まれた経験のある人なんて周囲に誰1人としていないし、そもそも不良を見たこと無い人の方が……いやそれは言いすぎか……とかく、彼らと少しも関わった事が無いから、こういう時どうしたらいいのか分からない。
え?というか、なんで目が合っただけでちょっと怒ってくるんだ?なんかズンズン歩いてくるし。
「……え、っと……うる……賑やかで楽しそうだったからつい……(つい……?)」
「ハァ?ナメてんのかテメェ」
「いえ、別に……気を悪くさせてごめんなさい」
これ以上会話しても火に油を注ぐような気がして、できるだけ刺激させないように事務的な笑顔を作る。そして私はもう行きますと言って歩き出そうとするが──その不良に進路を塞がれた。目の前に立たれるというだけで、大きな壁のようだ。最悪だ。舐めてんのはそっちか。私を見下ろす不良は、あからさまに下卑た笑顔を浮かべていた。
「ならちょっと付き合えよ、嬢ちゃん。タノシイ事しようぜ?オレたちとさ」
「けっ……こうです、私帰るので」
「つれねえ事言うなって!なァ!」
取り繕えない程声色が乱暴になっていくにつれて、私は自分が混乱と緊張の中にいる事に段々気づいてきた。どうしよう。力で勝てるはずもないし、この男は話が通じない。そもそも私と会話する気が元から無い……ことが分かったのが今さっき。思考と後悔に脳の容量を割いていたせいで、判断能力がありえない程働いていなかった。さっさと走って、まだ灯りのついている店にでも駆け込めばよかった──近くにはそんなもの、無かったけど。
「姉ちゃん怖がってんぞ!」「もっと優しくしてやれよ」「ウゼーぞオマエ」と、仲間の不良たちから野次が飛んでくる。私と不良どちらも助けようとしない、無責任な笑い声だ。今の私は暇つぶしの見せ物にされているのと同義だった。もしかして、話し合いとかしないタイプの人たち?
離してほしいと言っても不良の手は当然私の腕を掴んだままだし、ずるずると引きずられるように駐車場の奥、不良集団の中へと連れていかれる。地獄の入り口みたいだった。多対一になったらいよいよ私に勝ち目はない。からといって殴りつける勇気も、大きな声をあげる気力もなかった。喉が締められているみたいに苦しくて、話すこともできない。……怖い。
「大丈夫だって、コワくねーからよ」
大人しくしてたらよ、と猫撫で声で不良が物を投げ捨てるように私をその集団の放り込んだ。私はバランスを崩しながらも顔を上げる。そしていちばん奥に立っていた男と目が合って──
「………………三っちゃん…………?」
と。
今、この場で。いちばん言いたくない呼び名が、口からついて出た。
「…………あ…………?」
男は──三っちゃんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。きっと私も同じような顔をしていただろう、私が三っちゃんの前まで歩いて行くと、さっきまで余裕綽々だった不良たちは茶化すこともせず見た事のない生き物を見るような目で私を見るだけだった。
「み……つい。三井寿、でしょ」
「テメェ、なんで……」
「久瀬峰。久瀬峰ひかり……覚えてる?」
声が掠れて震えてる。覚えてる?なんて残酷なことを聞きたくはなかった。案の定返答はなく、三っちゃんはただ私を見下ろしているだけだ。男子三日会わざれ場刮目して見よなんて言葉があるけれど、実に5年近くの歳月を経た三っちゃんはまるで別人のようだった。小学生と比べれば誰だってそうだけど、同じ目線だったはずなのに、私の目線は彼の肩程度になっていて。声のトーンもずっと低い。駐車場の灯りが点滅しかかっているせいで、顔つきはよく見えなかった──けれど、再会を喜んでいるような表情では、なかった。隣にいたひときわ体格のいい不良が、その顔付きに似合わず「三っちゃんの知り合いか?」とずいぶん柔らかい声で聞く。三っちゃんはその不良を一瞥して、「……いや、知らねェな……こんな奴」と吐き捨てるように言った。
知らない。知らない──いや、いい。分かってた。当たり前。小学生の、しかもたった数ヶ月もない。クラスどころか学校も違う。覚えてなくて当たり前だ、ずっとそうだったんだから、今更どうともない。
「オイ……さっさと失せろ。邪魔なんだよ」
動揺から一転して、三っちゃんは『さっさとどかないと殴りつけてやるぞ』とでも言わんばかりの敵意を私に向ける。というか、実際、そうなのだろう。少しでも逃げる猶予を作っているのは、一応私が女子だからなのだろうか。
その間にさっさと踵を返して走りさればいいのに、私の足は地面に縫い付けられたように動かない。このまま大人しく引き下がれない。心臓が早鐘を鳴らして、指先が震えていても、怖くても。意地だけが私の足を支えているようだった。
「……は……」
「あ?」
「……膝は、もう大丈夫なの?」
今度も返答はなかった。代わりに私の肩に鈍い痛みが走る。一瞬呆けたかと思うと、三っちゃんは物凄い剣幕で私の肩に掴みかかり、「誰から聞きやがった…!!」と凄んできた。
「ッ………いた……!」
「言えよッ!誰が話した!そんなこと……!」
「み、三っちゃん…!?」
目を見開いて額に青筋を立てる三っちゃんの叫びは、あまりに似つかわしくない表現をすると、悲鳴みたいだった。ぎし、と肩から不穏な音がした気がする。さっきの不良よりも痛い。皮膚に食い込まんばかりの圧力が私の両肩にかかっていた。三っちゃんの仲間の不良たちもおかしさに気付いて「なにやってんだ…?」「どうしたんだよミツイ」と声をかけたが、三っちゃんは「うるせぇ!黙ってろ!!」と一蹴する。なんにでも突っかかりそうな奴らなのに、不良たちはその一言で押し黙った。恐らく、三っちゃんはこのグループの中でも発言力のある立場なのだろう。
そんな状態であの眼鏡君の事を話したら、きっと大変なことになる──悲しそうな表情を浮かべる、人の良さそうな彼の姿を思い浮かべて、私はその直感に従う。
「……な、治ったの?まだ……まだ良くなってないなら、病院に行ってほしい」
治ったら。もし治ってたら。
また、昔みたいに……。
「──うるせえな!」
まるで私の言葉をかき消すように、三っちゃんは叫び、私を突き飛ばす。抵抗するまもなく、硬いコンクリートの上に尻餅をついて、思わず呻き声が出る。痛い。お尻どころか、骨に響くような衝撃が頭のてっぺんまで走るようだった。折れるような音こそしなかったけれど、立ち上がる、どころか動くことさえままならない。今私ができるのは、ただ突き飛ばした張本人を見上げる事だけだった。
街頭の光すら遮られた視界では、三っちゃんがどんな顔をしているのか分からない。ただただ黒く塗りつぶされた仮面が、怒りに震えている。
「さっきから……ワケわかんねえ事ピーピー言いやがって……俺は……俺はな!もうやめたんだよ!」
「……やめ、た」
三っちゃんの言葉を反駁する。
それしかできない。
なんで、と聞くことができない。聞きたくもなかった。
「飽きたんだよ!そうだ……あんなッ、あんなの、ただの暇つぶしの遊びじゃねえか!」
──お前なぁ!とにかく一回観にこい!ただの玉入れなんて言えなくしてやるから!
「高校生になってまで真剣にやる価値ねえよ、たかか部活だ!くだらねェ……!」
──中学行っても高校行っても大学行っても続けて、俺の名前を全国に轟かせてやっからさ
「もう……終わったんだよ!要らねェんだよ、俺に」
──だから、忘れんなよ!ちゃんと見てろよ、俺のスーパープレイをな!
「もういい」
「もう、いいです」
言葉がつっかえて上手く出せない。目があつい。顔があつい。
心臓が刺されているみたいだった。息が苦しい。胸が苦しい。
今。私の体を、脳を支配しているのが怒りなのか悲しみなのかも分からない。名前が着く前にすりつぶされてひとつの塊にされた感覚。選択肢がこれしか残されていないみたい。
ただ、もう聞きたくなかった。お願いだからやめてほしくて、それだけのために声を絞り出していた。
「話しかけて、ごめんなさい」
勝手に理想を押し付けて。鵜呑みにして。
まるで道を照らす星みたいに神聖視しちゃって。
覚えてて、期待して勝手に失望して。
勝手に傷ついてごめんなさい。珍しくなんてない。しょうがない。
って、思えなくて、こんなところまで来て、そんな事を言わせてごめんなさい。
「も、……う、もう、いいです。すみません。ひとちがい、でした」
震える足を無理やり動かして、がむしゃらに走った。風が冷たくて、水の中みたいに喧騒は遠い。
身体中が熱いのに冷たい。靴と短く吐いた息の音だけが聞こえているのに、自分が今なにをやっているのかすら理解できなくて、ただ体に染みついた行為を機械的になぞっているようだった。やがて、機械の音が頭にこだまする。
電車の音、発車ベルにアナウンス、人のざわめきに時々混じる子供の泣き声。私にハンカチを差し出すお婆さんの気遣わしげな声に気がつく頃には、三っちゃんの声はとっくのとうに聞こえなかった。
▽
細かった。
肩も、腕も、指も、首も。俺の手のひらに収まりそうなほどちいさい。筋肉のかけらも感じられないようなキャシャな体。5年ぶりに見たひかりは背が縮んで、大人びていた。
俺を見上げる目だけは変わらなかった。事情とかメーワクも考えず、どこにでもあるただのシュートが世界一キレイに見えるらしい、馬鹿で、純粋な目。
その目から涙が溢れてるのを、初めて見た。
「逃げやがったぞ!どーすんだ?三井……」
「……三っちゃん?」
「……もう、いい……?」
なんだそれ。
もういいってなんだ。なんで泣いてんだ。泣くなよ。
人違いじゃねェ、ふざけんな。三井だ、三井寿だ。お前が遠慮もしねーで話しかけてきて、お前がうるせえからスリーポイントシュートできるようになるまで教えただろ。なあ、なにしてたんだよ、元気してたか?俺はずっとバスケ一筋だ。お前も知ってるだろ、俺のスーパープレイ!月刊バスケにも載ったんだよ、県大会優勝に導いた武石中のMVP、三井寿!当然見たよな、約束の事忘れたとは言わせねーぞ!つーか、また神奈川に戻ってきたのかよ、だったら言えよ!連絡先なんて知りたくないし知らせたくないっつーから気使ったのによ。5年だぞ5年!話すことありすぎてまとまんねーや。いやまずシュートだな。引っ越してもちゃんと練習してたんだろうな?打ち方忘れてたら許さねーぞマジで。あのバスケットコート覚えてるだろ?今度の休みにテストしてやるよ……ガッコー近いのか?そういえば部活とかなにやってんだよ、俺?俺は湘北の、もちろん──
「……帰る」
「え?」
なんで。
なんで今更、なんで今更、なんで今更!
なんにも知らない顔して、俺の前に立つんだよ。
ふざけんな、遅いんだよ。
あの時。あの時、お前がいたら。
傍に、いてくれたら……。
「萎えた。……ダリィわ」
夢を見た。
シュートの練習。先週の練習試合ではシュートの確率が悪かった上に相手によっぽど自信のある奴がいたのか、バンバン打たれて苦しい展開だった。次までにバリエーションを増やして、いつどこのポジションからでも打てるようにしねえと、大会では話にならねえ。
ミニバスの前も練習しねーとと自転車を走らせる。朝も早かったせいか郊外のバスケットコートには人ひとりいなかった。パシ、パシと一定のリズムでネットが揺れる音だけが響く。何本かスリーポイントシュートを決めた頃、コートに1人分の足音が増えた。
おっ、やっと人が増えたな、相手がいねーなら1on1でも……と少しの期待をこめて振り向くと、そこに立っていたのは女子だった。
見るからにスポーツなんてしなさそうな出立ちだった。外遊びなんてまったく想定してなさそうなヒラヒラしたワンピースにヒールのあるサンダル。すでに日焼けしてる俺と違い、本当に外出てんのかと疑いたくなる肌。バスケどころかスポーツそのものとかけ離れたような姿は、なんだか違う星から来た宇宙人みたいだった。俺はその異様さに思わず固まり、女子がまっすぐ俺を見据えてツカツカと歩いてくる間もなにも言えなかった。
「──それ、教えて」
「はあ?」
「さっきの、綺麗な……ボール投げるやつ!」
ワンピースの裾を握りしめて、顔を真っ赤にして、目を輝かせて。
ひかりはそう言った。