これまでのあらすじ・破
シーズンが終わった海は、いつも以上に静かだ。
波の音、海鳥の鳴き声に時折踏切の音が混じる。雲ひとつない青空に潮の匂い。陽光は真夏の時よりいくらか穏やかで、映画のワンシーンみたいに堤防にでもぼんやりと腰かけて、水平線を眺めてみたくなる。
「……静かだね」
「だなあ」
……実際、今。防波堤に座ってぼんやり海面を眺めている。いや、眺めさせられていると言ったほうが私的にはいいのかもしれない。
誰かと聞かれれば、隣で足を伸ばして座る従兄弟に。
「彰って休みの日はずっとこうしてるの?」
「ん?んー……釣りは今でもやってるが、一日中居るってわけじゃないさ」
ホントは一日いてもいいんだけどな、と彰は眉尻を下げて笑う。背丈もヘアスタイルも随分見違えたけれど、その丸っこい石のような、綺麗でゆるい笑顔は変わっていなかった。昔から妙に落ち着いた子どもだったような気がするが、最終的に落ち着いたのが釣りとは。釣りの道具を持っていないから休日の朝から何してるんだと思っていたが……いや、そもそも、彰とここ神奈川で再会した所から驚くべきなのかもしれない。
「今日はなに、観光?」
「え?」
「え?」
「あー……いや、そりゃ知らないか。オレこっちで下宿してるの」
「え、そうなの!?ここら辺の高校?」
「うん、陵南。バスケ部の監督にスカウトされた」
一瞬、幻聴かと思った。
陵南、の、バスケ部……。あまりにも私に都合のいい言葉の連鎖に、耳か脳がおかしくなったのかもしれないと思うほど、私の目的と彰の立場がドンピシャすぎている。
「……どーしたひかり?」
「や……こんな事があるんだなあと思って」
「?」
「気にしないで、こっちの話だから」
「ふーん?……そっちは?今どこに住んでんの」
「まだ東京にいるよ、事業が落ち着いてあっちこっち飛び回る必要なくなったから……普通の高校2年生してます」
「そっか。……オヤジさんも元気?」
「元気だよ、うまくやってる」
彰はまた「そっか」と相槌を打つ。簡素な言葉だけど、彰なりに何を言おうか付け足したり削ったりして、色々と考えながら出した言葉だという事は分かっている。ぽっかりと消えた4年分の空白を埋める事はできない。話したい事の中に、話してはいけない事がどれぐらい隠れているのかも分からない。私たちはもはや、友人なのか、身内なのか、他人なのかも曖昧なボーダーラインに立っていた。
「心配したぜ、色々。もう会えねーかと思ってた」
「まあ、こうして道端でバッタリなんて事なかったら、余程の事じゃないと会わないだろうしね」
「そうか?オレはバスケ続けてたら、またどこかで会るかもって、ちょっと期待してたけどな」
「ええ?いや、する側にはならないよ。観戦はまあ、しなくはないけど…………そうだ。ちょっと、彰に聞きたい事があるんだけど」
「なに?」
「……えっと……」
「?」
「陵南のバスケ部に……三井寿ってひと、いる?」
きっと思ってもみない質問だったに違いない。彰は目を丸くして、私からの質問をありのまま受け取ろうか迷いつつも、視線を斜めに上げながら、顎に手を当てる。部活動とはいえ個人情報だ、"ごめん、言えない"と伏せられる可能性もあったけれど、彰はうーん……?と唸っていて、ありがたいことに、ちゃんと仲間たちの名前を思い出しているみたいだ。けれど、だからといって、期待通りの返事が来ることも限らない。
「いや、オレは知らないな。二年?」
「多分……」
「多分?ひかりの知り合い?友達?」
「知り合い以上友達未満、かなあ……」
聞いておきながらなんてフワッとした関係なのだろう。彰も釈然としない顔をしている。とにかく分かったのは、陵南高校に三井寿──三っちゃんは居ないという事だけ。海南に引き続き、二度見込みが外れたことに、私は自然とため息をついてしまった。あと県内だとどこが強いんだっけ。翔陽と、武里だっけ……とにかく時間は限られている。私は「変な質問なのに、ありがとね。私、そろそろ行くよ」と言って立ち上がると、彰が「……ちょっと待った」と私の手を掴んだ。
「そのミツイって人、知らないか先輩に聞いてみるよ」
「えっ?いや、そんな気にしないでいいよ……先輩方にも彰にも、迷惑でしょ」
「聞くぐらい迷惑なもんかよ。他校の選手も、腕が立つ奴なら練習試合や公式戦で覚える。先輩たちならオレより繋がりもあるだろうし、いるかも分からん学校をいちいち探すよりかは効率的なんじゃねーの?」
「うぐ……」
返す言葉がない。今日の予定がすっかり見透かされている。こうして彰と再会できたからいいけど、県内だけでも数十校はある学校のバスケ部にいちいち尋ねるのは、体力的にも精神的にも現実的じゃない。バスケに縁のある子が少ない交友関係だから仕方ないと思っていたけれど、こんな所に救いの手があるなんて。
「じゃあ……その、お願いします。面倒ごとに付き合ってくれてありがとう」
「いーよ。どうせ物のついでだ」
にこやかな笑みを浮かべたまま、彰は立ち上がってパッパと土の汚れを落とす……物のついで、という何気ないはずの言葉に引っかかったのはなぜだろう。うっすらとした違和感は感じていて。今日は土曜日……世間一般でいうところの、休日で。そんな日に朝から。
「…………あの、彰……今日もしかして…ぶ「仙道おおおおおおおおおおッ!!!!!」
部活なんじゃないの────
という言葉は、鼓膜を突き刺さんばかりの怒声にかき消された。
人の名前を呼んでいるだけとは思えない迫力に、当の本人のみならず、私も飛び上がんばかりに驚いてしまった。振り返ると、そこには体操着姿の男子高校生が、息を切らして立っていた。その表情は負けず劣らず、怒っている。
「越野……」
「おっまえ、部活にも来ねえで彼女とイチャついてるとはいい度胸だなあ!?」
「(彼……?)」
「いやー……まいったな。今日は間に合うはずだったんだよ、寝坊もしなかったし」
「だから何だよ。遅刻は遅刻だろ!」
「……彰やっぱり部活だったの?しかも遅刻ってなに、遅刻してるの?いつも?」
「え、やー、はは……」
彰は相変わらず笑ってはいるけれど、言い逃れができない代わりに目を泳がせている。ああ、そういえば、昔もやたら起きてくるのが遅かったような気がする。朝食の時間になって起こすのは大体私だった……とはいえ、今までの遅刻はともかく、今日に限っては私が拘束しすぎたせいでもある。ここでコシノ君と一緒に彰に詰め寄るのは悪い。いや彰に引き止められたのも私なんだけど。そろそろ手を離してほしい。
「……コシノ君。今日は私の話に付き合ってもらってたから、遅れたのは私のせいかも。ごめんなさい、久しぶりに会ったし」
「えっ!?いや、別に……」
「いや、オレが悪い。寝坊したし」
「したんじゃねーかよ!はあ〜〜……とにかくもう行くぞ!監督キレてんだからよ」
「走って?」
「当たり前だろ!」
「そうかあ……ひかり、陵南の場所わかる?」
「え?うん……え、私も行くの?私も走るの?」
一瞬マジかよ、みたいな顔になったのか(コシノ君もなっていた)彰は違う違う、と手を横に振る。「後からゆっくり来ていーよ、守衛さんにはオレが話しとくから」と言うとぱっと私から手を離したかと思うと、じゃ、行くぞ越野!と走り出した。さすが現役バスケ選手というべきか、遠慮する隙もないスピードで私の横を駆け抜けていく。その後ろをコシノ君が慌てて追いかけていくほどに……。
「いいのかよ、部外者だろ」
「従姉妹だし」
「従姉妹だったのかよ!?……いやそれも関係ないだろ……」
「オレのひとつ上だからちゃんと敬語使えよー」
「お前は俺の話を聞けよ」
なにやら話しながら2人はどんどん小さくなる姿を見送って、私はひとり防波堤に取り残される。今寄り添ってくれるのは波の音だけで、あれよあれよと展開が進んでいったせいなのか、自分だけがスタートダッシュに遅れている気分だった。
駅前ならともかく。ここから陵南高校まで徒歩で行くのは私の体力的に厳しいものがあるけれど、駅の名前にも採用されているほどなので近くにバス停がある事はリサーチ済みだ。穏やかな水面に背を向けて、地図を片手に私は三井寿捜索作戦を再開した。
▽
土日ダイヤという事もあって、結局私が陵南高校の体育館にたどり着いたのはあれから1時間以上も経ってからだった──とはいえ、丁度昼休憩に入ったからなのか、床を蹴る音もバスケットボールが跳ねる音も、声援も聞こえなかった。その代わり、いっとき練習から解放された人々の賑やかな声が体育館の外にも響いている。
私は開放された入り口から体を半分出して彰の姿を探す。同じユニフォームを着た長身男子ばかりでも、あの身長と髪型はそういるものでもない。幸いすぐに見つかった。丁度彼の方でも探してくれていたのだろう、タオルで汗を拭いながらきょろきょろと目線が左右に動いていた。私と目が合うと、ほっとした笑顔で私を手招きしてきたので、備品のスリッパを借りて中に入る。
「今着いたの?」
「うん。でも丁度良かった。ハイ差し入れ」
「え!?あー……気使わせて悪ぃ」
「お礼みたいなものだから、気にしないで。好きに選んじゃったから、飲まなかったらそれでいいし」
「いや、助かるよ……サンキュー」
袋を彰に渡すと、「うわっおもてー」となんとも腑抜けた声をあげる。私はともかく、バスケ部が2Lペット三本ぐらいが重いはないだろ。
「それで、例のやつだけど……」
「ああ、練習中で聞くヒマ無かったんだよな」
「遅刻なんてするから……」
「そー言うなって。遅刻のおかげでもあるんだし、今呼ぶからさ……魚住さーん!」
ウオズミ。その名前に反応して私たちの方へ振り向いたのは巨人だった。いや、巨人というのはやや誇張した表現だったかもしれないが、いや、巨人かも。のっしのっしとこちらへ近づいてくる瞬間瞬間、私の目線も高くなる。彰の隣に立つ頃には、私は一歩後退しなければ首を痛めてしまうだろう、と確信できる大きさだった。彰も立って話すには充分痛める高さなのだけれど。
ウオズミさんは呼ばれたから来たものの、これから何をするのか全く知らされていないバラエティ番組の演者のような顔で私を見下ろして、彰に視線を移した。
「なんだ仙道。……もしかして、さっき言ってた従姉妹か?」
「!休憩中に突然ごめんなさい。私今、人を探してて。偶然……仙道君に会ったので、相談してたんです」
「陵南には居ないんスけど、他校にはいるかもしれないって話になって。3年の先輩たち引退しちゃったんで、魚住さんに聞こうかなと」
「全国区ならともかく、県内だったら多少は知ってるが……あんまり期待はするなよ」
「まあまあ、それで……誰だっけ?ミハシ?」
「三井!三井寿って人を探してて……神奈川に居るとは思うんだけど」
ウオズミさんは「ミツイ?ミツイ……」と顎に手を当てて記憶を探り、「ああ!」と目を見開いた。
「武石中の三井?」
「中学最優秀選手の三井!」
「4番の?」
「4番の!」
「…………」
「………………」
「……いや、見てないな。そういえば、一度も……」
一瞬の高揚感が、一瞬にして地の底まで落とされた気分だった。天国と地獄とはまさにこの事、みたいな。液体窒素の中にぶっ込まれたような衝撃で私が固まっている横で、彰が「ありゃ」と他人事丸出しの声でつぶやいた。
「す、すまん。力になれずに……」
「いえ!ウオズミさんのせいじゃないです、むしろ、選手側から言ってもらえてよかった」
あんまりにショックな顔をしていたのか、気にする必要はまったく無いのに、ウオズミさんもおろおろとしだしたので、慌てて気を持ち直す。陵南は県大会の決勝トーナメント常連の強豪校、無関係の私よりもずっと広いコミュニティを持っている筈で、彰が迷いなく呼ぶという事は、ウオズミさんはきっと陵南バスケ部の現主将だ。
その彼が……三っちゃんを姿だけでも知っている彼が見たこともないと言ったなら、それはたぶん、本当の事だ。バスケットコートに三井寿はいない。今年──いや、私が認めたくなかっただけで、去年も。高校生になった三っちゃんは、居ない。
珍しくない。
高校生になって、何かを始める事もあるし、何かを断ち切る事もある。理由なんて、やむにまれぬ事情からくだらない私情まで無数にあるのだろう。私の頭の、理性的な部分が冷静に受け入れようとしている。
けど、どうして?
どうして居ないの?
あんなに……あんなに、大好きだったのに。
「──三井?」
と。
私のでも、彰のでもウオズミさんのでもない別の声が、ウオズミさんの背後から飛んできた。のだけれど、なにぶん彼がデカいおかげで私は横にずれてその人物に視線を合わせる。
「監督!」
「かっ……」
私たちよりもふた回り程年齢を重ねているであろうポロシャツ姿の男性。監督、と2人に呼ばれた男性と目が合うと、私は思わず「すみません!」と頭を下げていた。
「休憩中なのに、お騒がせして……」
「いや、たまたま聞こえただけだ。気にしないでくれ。……それより、三井というのは、三井寿君のことか?武石中の」
「は、はい」
「彼なら湘北高校に行くと行っていたが……」
「湘北──って、え、でも……」
今年の県大会予選の出場校を覚えたからすぐにピンとくる名前だった。
此処からそう遠くない公立高校……私が候補から真っ先に外した学校の名前。一回戦で敗退した、所謂「弱小校」が湘北高校だったのだから。
監督も、愕然とする私を見て「君の言いたい事はわかる」と頷く。けれど、共感を示す眼差しには諦念のようなものがあった。それは受験に失敗したとか、志望校を変えたとか、引っ越したとか、平和的で優しい可能性を示すようなものでは無い。
「こういう事はある」と。
私なんかは及びもつかない程多くの選手を見てきた人の、嘘偽りない瞳が、丁寧に逃げ道を塞いでいる。
「彼から湘北に行くと言われてからは魚住と同じだ。県大会でも全国でも、彼の姿は見ていない」
「……ありがとうございます。でも…………やっぱり、直接確認します」
「そうか……」
「貴重なお時間頂戴して申し訳ありません。仙道君に差し入れを渡していますので、よければ皆さんで分けてください」
「え?練習見ていかねーの?」
では、失礼します。という形式的な挨拶とお辞儀までの一連の流れを、彰のなんかやたら弱々しい声がぶった斬ってきた。
見ると、その声色に負けず劣らず弱々しい……というか、雨に濡れた犬のような眼差しで私を見下ろしている。昔カラスにおやつを奪われた時もこんな顔をしていた気がする。懐かしい……その時は私のを分けていたんだっけか。けれど今の彰は親戚に可愛い可愛い言われまくっていた天使みたいな彰くんではなく、此処にいるのも可愛さに流される幼い私でもなかった。
「用ができたし……夜は塾があるから時間があるうちに済ませたいの」
「む……じゃあメモとペン貸して」
「は?ちょっこら!勝手に女子の鞄を漁んなばか!強盗!内ポケットにあるから!」
「いいだろ従姉妹だし」
この野郎!従姉妹、厳密には元従姉妹とはいえ女子の鞄にノータイムで手を突っ込むな。彰は何食わぬ顔をして内ポケットからメモ帳とペンを強奪すると、パラパラと適当に開いてなにやら書き込む。やがてかちん、と音を立ててペン先をしまい、「はい」と私の手のひらにメモ帳とペンを返した。
「何書いたの?」
「オレの下宿先の連絡先と住所」
「……大丈夫なの、それ」
「もう4年経ったんだし、いいだろ。オレは久々に会えて嬉しかったけど、ひかりがそうでもないなら捨てていーぜ」
「いやでは……ないよ」
……なんだか数分前に同じようなやりとりをしたような気がする。4年か。大雑把だけれど、改めて数字にされると、もうそんなに経つのかと老人のような感想を抱いてしまう。4年間に私はちゃんとした止まり木を与えられ、家族が変わって、彰は背が伸びて、家から出て、バスケを続けている。
「私もまた会えて嬉しいし、変わってなくて嬉しい……背丈の話じゃなくてね」
「ひかりは背もあんま変わってないな」
「うるさいな。……冬の選抜、応援してる」
「現地には?」
「……日程による」
そう言うと彰は目を細めて「おし」と笑った。その笑顔は見たことがなくて、軽口を叩こうとした私の喉は思わず詰まる。そして言葉のなり損ないが小さく漏れるだけだった。4年間すっ飛ばして生まれた、私の知らない人の顔。それはすぐにいつもと変わらない、へんにゃりした笑顔になったけれど。
▽
「あのッ、バスケ部の人ですか?」
そう、私が声をかける頃にはすっかり辺りは夕暮れ時を過ぎていた。練習の邪魔には極力なりたくないと、体育館が静かになるまで時間を潰していたらこんな時間だ。確実に塾には遅れそうな気配がするけれど、それでも8時近くまでやっていなくてよかったと安心した。我ながら行き当たりばったりすぎる。
そうして校門の近くで待ち構えていると、エナメルバッグを肩にかけた男子がまばらに出てきた。一瞬。一瞬だけ彼らの顔を覗き見ても、三っちゃんらしき男子はいない。その事にまた余計に息が詰まりそうになるけれど、想定通りだと言い聞かせる。
居なかったなら、聞かなくては──私は意を決して眼鏡をかけた、突然見知らぬ人間に話しかけられても引かなさそうな男子に声をかけた。勢いが良すぎたのか、眼鏡の人は「えっ!?」と後ずさる。
「そ、うだけど……」
「すみません、驚かせて。えっと……その、私、三井寿くんという人を探してて、湘北高校を志望していたと聞いたので……」
「え?三井の、知り合い?」
「!彼はこの高校に……バスケ部に所属しているんですか?」
眼鏡君(便宜上、そう呼ぶ事にする)は目に見えて驚いたかと思うと、眉根を寄せて口を引き結んだ。その表情は怒りというよりも、どこか苦しそうで、悲しそうなもので。
それがこれまでの全てに対する答えのような気がして、指先が冷えていく感覚がした。私を支えている体の芯が、ひどく細くて頼りないものになっていく。
「三井は、確かに湘北高校に在籍してるよ。バスケ部にも……入部した。湘北が全国制覇するって言ってたな。はは……」
「…………じゃあ「でも」
「1年の時に膝を、2回故障して……それからずっと、部には戻ってない。一度も」