これまでのあらすじ・序
この世でいちばん綺麗なものだ、と思った。
まるで吸い込まれるように。「そう」と決められたように、ボールは重力なぞ知ったことかとも言いたげに弧を描き、赤い輪の中に入る。
いっさいの無駄を排したような光景。
音も、動きも、速度も高さも、全てが。
フェンスを掴む手に力が入る。その一連の流れを見逃すものかと、無意識に目を見開いていた。
完璧なスリーポイントシュートだ──生まれて初めて見ただけなのに、そう言ってしまいたくなるほどに。
すごい、すごい、すごく──くやしい。
心の底から沸き出してくる賞賛に、正反対の言葉が混じってしまったのは、その美しい放物線の起点に立つのが──自分と少しも違わない背丈の男の子なのだと気づいてからだった。
▽
良い夢を見ると、悪いことが起きる気がする。
エビデンスの無いばかげた法則以下の思い込みが、けれどこの人生に常について回っている。気がする──ランチバッグを開けて、私は溜息を吐いた。
「最悪」
「なにが」
「お弁当忘れた」
前に座るチヒロと幸子がランチバッグに視線を落として、マジか?とでも言いたげな表情になった。
「それで忘れることある?」
「ひかり霞食べてんだ」
「違う、パンだけ入ってたの。おやつ用の」
「ならいいじゃん」
「よくないよ見てこのサイズ!子どもの一食用」
半ばヤケクソになって近所のベーカリーで買ったお気に入りのクリームパンを引っ張り出すと、二人は「んぁー」と本気で興味のない、相槌未満の鳴き声を返してくる。絶対におかずを分ける気のない顔だった。薄情者め。教室の時計を見やると、4限が押したせいで昼休みが既に10分を経過している……きっと購買はすっからかんだ。おにぎりや惣菜パンはおろか、ウケ狙いの微妙な味の菓子パンすら売り切れているに違いない。
「ねぇなんかない?今飴しか持ってない」
「えー……あ、あれあるよ、なんだっけ、沖縄のお菓子でさあ……」
「なに?あ、分かった、ちんすこうでしょ」
「サーターアンダギー」
「なにそれ……」
「どっちにしろ砂糖じゃん」
沖縄の名産品と銘打たれるサーターアンダギーは、スーパーで見るブロック状のドーナツのような形をして美味しい。ちんすこうよりもずっと腹持ちが良いと思うけど、塩分ビタミンタンパク質に鉄分みたいな他の栄養素は期待できない味だった。それを言えばこのパンもそうなのだけれど。私は諦めてクリームパンを頬張る。甘さ控えめの、重すぎないクリームが口の中に広がる……本当はもっと良い気分で味わう予定だったのに。
「はあ……やっぱりなあ」
「やっぱりって、なに……いつものやつ?」
「うん。今日は良い夢だったから……」
「悪い事が起きるってヤツね。本当かはともかく、そんなに良い夢だったの」
「うん!小6の時の……」
どんな夢かを説明するよりも前に、2人は察したように「ああ、」とうんざりした顔で頷いた。今や夢に続いて小学6年生の頃と続けば「"三っちゃん"ね」と、声を揃えて先読みできるようになった。涙ぐましい教育の賜物である。
「そうそうそう、初めて会った時の夢!」
「分かったからもーいいよ、耳タコだよ」
「"三っちゃん"の夢見たら悪い事が起きるって考えた方がいいんじゃいの?」
「や、三っちゃん以外にも良い夢は見るし、悪い事は平等に起きてる」
小学6年生の夏。
もうはっきりとした日時も天気も町の名前も転校先の学校の名前も全部あやふやだけど、通算4度目の転勤によって引っ越してきた県名はちゃんと覚えている。ひとりで探索していた末に見つけた、郊外にあるバスケットコート。
そこに三っちゃん──三井寿はいた。
自分の身体の一部みたいにバスケットボールを操って、正確無比な動きでゴールポストに投げ込む三っちゃんの後ろ姿が、網膜に焼き付けられたように、鮮明に思い出せる。勿論、そのプレイに魅せられて詰め寄った私のセリフも。その日から時々、お互いの用事を擦り合わせる事もせずにコートにいたら練習して、いなかったら別の事をするような小学生らしいライブ感で、奇妙な練習が始まった。
三っちゃんに言われて知ったスリーポイント位置からのシュートを教わりながらひたすら練習した数ヶ月は、勉強とか習い事とか大人の事情とか、少しの間友達になって、またすぐに他人になってを繰り返す内に肥大化していく私の孤独感を紛らわせてくれる時間だった。その練習のおかげか、他のテクニックはからきしだけど、シュートだけは今でも上手いと自負している。もちろん遠ければ遠いほど。
三っちゃんは別に優しくはなかった。
言葉遣いやデリカシーの無さは年相応。私はシュートだけがしたかったのに、いつの間にか1on1をさせられて当たり前にボコボコにされるし、バスケが大好きすぎるから無闇に手を抜くような真似もせず、シュートが入らなかったりトラベリングするとそれはもう水を得た魚のように冷やかしてきた。当時小学生とはいえ同学年の男子でももうちょっと落ち着いてた気がする。
けれど、私のシュートが初めて入った時は自分の事のように喜んでいたし、(物凄く手を抜かれていたとはいえ)ドリブルで彼を抜くと「やるじゃねーか!」って歯を見せて笑う子どもだった。
「結局連絡先を聞かない上にひかりのも教えず転校して、今はどこで何してるのかわからないんだっけ?」
「でも"三っちゃん"が『中学に行っても高校に行っても大人になってもバスケ続けて日本中にオレの名前を轟かせてやるから、どこに行っても絶対見つけろよ!』って言われたんでしょ」
「凄い、流石名門の記憶力」
「本当はこんなの暗記したくないっす」
昼休みだというのに幸子は疲れたような顔で失礼な事を言って、3個目のおにぎりを開ける。チヒロも同じような顔でコンビニのそばを啜っていた。私の手にあったはずのクリームパンは既に消え去り、包みが虚しく残るだけである。
「んでも、実際すごいんだよね?三っちゃんクン。ほら中学MVPとか言ってたじゃん」
「そう!そうです、県大会決勝の土壇場でシュート決めて逆転優勝してるの!」
「もう知ってるし、めちゃくちゃ得意げ」
月刊バスケットボールを手に取ったのは偶々だった。
待ち合わせまでの暇潰しに立ち寄った書店の雑誌コーナー。立ち止まったのも、手に取ったのもなんとなくで、丁度学生のインターハイ予選が終わった頃という事すらも知らなかった。その頃の私は、私以外のなにかに時間や興味を割く余裕がなかったから、三っちゃんとの約束も頭からすっぽり抜けていた。もしくは、くだらない子供の口約束だと切り捨てていたのかもしれない。表紙にいるのは白と黒を基調にしたユニフォームを纏う高校生……学生バスケの特集と言っても、紙幅を費やされてるのは高校生の方だったけれど、将来有望な中学選手として三井寿の名前が書かれているのを見た瞬間、飛び上がってしまいそうになった。文字通り、稲妻が落ちたような衝撃だった。
県大会決勝、残り数秒で逆転のシュートを決め、チームを勝利に導いたMVP──素人の身でも理解できる功績を綴った紹介文と面影の残る三っちゃんの写真は、きらきら光っていた。
夜の海でチカチカと明滅する信号灯みたいに、「此処にいる」と遠くから教えてくれる光だった。空を見上げたらすぐに見つかる一等星。そこに向かって走ることは無いのかもしれないけれど、何処に行っても、どれだけ離れても変わらず輝いてる希望みたいに見えた。
きっと彼も約束なんて覚えてない。
ただバスケが好きで、それを貫いてここまで来てる。それが堪らなく嬉しくて、悔しかった。三っちゃんがこんなに頑張っているんだから、私が投げやりになってどうする──多分、最初で最後の、人の行動に感銘を受けた瞬間だった。
「──そうだ、そろそろ県大会予選だ」
「県って神奈川の?」
「うん、神奈川っていうか……この時期はどこも予選始まるんじゃなかったっけ。覚えてないけど」
「そっか、三っちゃんクンは神奈川の高校進んだっけ」
「……ん、……………んー……そう、だと思う」
珍しく歯切れが悪くなる私に、チヒロと幸子が「おや?」という顔で見てくる。
「MVPに選ばれたんだから県内の高校からスカウトを受けてもおかしくないと思うんだけど……去年、全国どころか県大会でも見なかったんだよね、勿論……私が行った限りだけど」
「ひかりが見てないだけでいたんじゃない?1年スタメンで大活躍って、まあ、流石に贔屓目入ってるかもよ」
「それは……そうなんだけど、縁起でもない話だけど、その、故障してないか心配になって」
「神奈川にいない可能性もあるよ、他の名門からスカウト貰ってんじゃない?」
慰めのような正論を否定する材料も持ち合わせていない私は、「そうだよね」と大人しく頷く事しかできない。事実、(あまり認めたくは無いけれど!)1年でスタメンはおろか控えにも入れなかったかもしれないし、県外の高校に進学したから私が観に行った神奈川の県大会に居なかったのかもしれない。海外に渡っているのかもしれない……もしくは、1年は怪我して療養していたのかも。
「今年はどうすんの?夏休みだけど丁度補講と勉強合宿あるじゃん」
「そうなんだよね……月刊バスケで結果待ちはもどかしいし、三っちゃんのプレーをちゃんと観たい気持ちもあるけど、2年全員参加だしなあ」
「うん、でもなんか意外。会って話したいわけじゃないんだね」
「……会って何話せばいいか分からんし、三っちゃんが私のことも、私に言ったことも覚えてるとは限らないから……」
「ええ〜!欲がない〜〜勿体無い〜〜」
チヒロがつまんなさそうにぶーたれてる横で、幸子が空になった容器を片付けながら「まあ、なんにせよ、見れたらいいね」と締める。話題は最近できた駅前のカフェ、最新リリースされたバンドの曲、模試の傾向に大学に6限の小テストと二転三転していって、三っちゃんの話は物語の前座のように過ぎていく。そうして昼休みは終わり、私たちはバタバタと慌ただしく授業の準備を進めて、今日指名されるのは誰か隣の子とこそこそ作戦を練る。高校2年生になっても私の日常はさしてあまり変わらず、初夏の日差しに授業を妨害されながら、「今年は三っちゃん見れるかなあ」とぼんやり考えていた。
けれど、県大会予選にも、全国大会にも、三井寿の名前は無かった。
どこにも。