与謝野イワン
【注意点】
・月刊少年ガンガン10号までのネタバレ
・捏造過多
・夢主固定設定あり
「生きてます?」
ふと意識が戻る。焦点が定まらないまま、ぼんやりと自分を見下ろす女の目を見つめる。温度のない目。自分を気遣うような雰囲気など万に一つも無さそうな視線に、与謝野イワンは自嘲気味に「生きてるよ」と返した。
「もう着いた?」
「残念ですが、まだ中間のSAです。峰山ちゃんが夜食を買いに行ってますが、水以外なにか要ります?」
「あー……いや、トイレ行きたくなったら嫌だし、水だけでいいよ」
「そうですか。じゃあこれ。置いときます」
女──苗字名前はイワンの腹の上にペットボトルを乗せた。後部座席を丸々使ってベッド代わりにしてるとはいえ、俺の腹をテーブル代わりにするのは如何なものか。と言いたいが、今のイワンは怒る体力すらも使い切った泥の塊そのものなので、「ありがと」と礼を言うに留まった。え?でもペットボトル?俺に寝ながら飲めって?
「ごめん嘘。紙がいい。紙パック。ストロー付きの」
「あ、すみません。今峰山ちゃんに連絡しますね。あってジュースでしょうけど」
「野菜がいい……」
「野菜ジュースで」
もっと言うならさっさと帰りたい、快適なマットレスの上で寝たい、というのがイワンの1番の望みなのだけれど、夜通し運転するのは名前なのだ。精神ストレスで事故られても困る。
「具合はどうですか?」
「起き上がれる気がしない。2、3日じゃあ調子戻りそうに無いな」
「神様の精気ですからね。相手もそれぐらい弱ってると良いんですけど」
どうかな、とイワンは溜息混じりに呟く。なにしろ相手は神様だ。目に見えてダメージを与えたと言えたのは精気移転ぐらいだし、それもじきに戻るだろう。主の厄介さを思うと、流石に1人では荷が重い相手だった。それが知れただけでも僥倖なのだが。
「名前ちゃんは残る?」
「いえ……報告して休憩したら峰山ちゃんと戻ります。大学もありますので」
「残念。学生は大変だな」
現役高校生と大学生。学校生活から遠く離れたイワンにとって、学業とこの仕事の両立がどれだけ大変なのか理解できるはずもない。偶にレポート課題が重なって、いっそう死んだ目でキーボードを叩く名前を目撃すると、俺たちより不健康な生活をしている……と憐れんだりする事はあるが。
「お待たせしましたーっはいイワン様、野菜ジュース買ってきましたよ!」
「ん、……悪いな」
「センパイもはい、カツ丼とおっきい方のエナドリ」
「ありがとう」
「ガッツリ食うなあ……」
名前は慣れた手つきでプルタブを開けてたっぷり半分飲むと、「そろそろ出発しましょう」と後部座席から運転席に移動する。峰山も助手席に戻り、ほどなくしてエンジン音が車内に響いた。スピーカーから深夜らしい落ち着いたメロディに乗って、名前も知らないラジオパーソナリティの会話が流れる。聞いたこともない外国の言葉で喋っているみたいだ。内容が少しも頭に入らない中、ふたりとも寝てていいですよ、と名前の声だけがはっきりと聞こえた。
そこに居ると死ぬよ。
そういえば、あの日もこんな雨だった。頭に響くほど聞こえるようなザアザア振りの……イワンはさして気にもならないテレビ番組を見ながら、窓の外へ耳を欹てた。ちょうど画面上部にもテロップが差し込まれる。大雨注意報だ。一部地域では警報になる。東村を襲った後でよかった、土砂崩れに巻き込まれたらたまったものではないし、俺はともかく新郷さんは泥水で汚れるの嫌いそうだ。
都内某所に建つ、それなりのグレードを誇るマンションの丁度中間の一室が名前の隠れ家だ。関東都内で仕事をする時に使う、ただの中継地点に入り浸るようになったのはいつからか。イワンのみならず峰山も私物を置いていくようになって、名前はそれも容認している。いや、忘れていると言った方が正しい。
好きに記憶を食べて、好きに返す。名前は望んで自分の脳を虫食いまみれにしていた。
「……冷蔵庫に挽肉が沢山あるんですけど」
「峰山じゃない?」
「……もしもし?峰山ちゃん?家の冷蔵庫に……ハンバーグ?わかった」
作るんだ。勝手に置いたのに。と喉まで出かかったが、いつもの事だ。そのハンバーグの恩恵に預かるであろうイワンは何も言わなかった。自分にできる事といえばせいぜい具材を切ることぐらいなのだが、以前申し出た時に「いえ、大丈夫です。キッチン汚されたくないし」とにべもなく断られたので大人しくしておく。いや汚しても掃除するけど、俺をなんだと思ってんだ。第一そのやり取りも彼女が覚えているか定かでは無かった。
「手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です「汚しても掃除するけど」……狭いので……」
「了解」
お前が入ると厨房が一通道路になると御陵が言っていたのを思い出し、イワンは大人しくなった。ガチャガチャとキッチンが慌ただしくなる。イワンは自炊に関することの一切に興味がない性分だが、生活の音は嫌いではなかった。遠い家族の記憶……とやらが呼び起こされるわけでもなく、ただ単に四方八方で音が鳴っていた方が、自分の存在もその中に紛れて都合が良いと思っているのかもしれない。キッチンに目をやると、順序よく必要な材料を準備し、慣れた手つきで工程を進めている。記憶の振れ幅は極端だ。同じ学部生の顔や名前もあやふやで、家の最寄駅すらも抜けている時があるのに、ハンバーグの作り方は覚えている。イワンが名前の身体じゅうにつけた痕を虫刺されだと言うくせして、「これ美味いね」と言ったおかずは覚えている。イワンはそんな事、覚えていなかったのに。
「名前ちゃんさあ」
「はい」
「何年前か忘れたけど、死にかけた時あったよね。こんな雨の日に」
雨の音がいっそう強まっている。通知音がして、速報が差し込まれる。河川の増水、氾濫危険水域、冠水。雨漏りで駅のホームは水浸しだ。駅前のバス停留所には長蛇の列。SNSに投稿された、地下に流れ込む雨水の映像が流れて、物見遊山の悲鳴が聞こえた。「覚えてる?」足元が崩れやすくなってるから、そこにずっといると川に落ちて死ぬけど。ツガイもいないんだろ?べったりと髪が張り付いた隙間から見える瞳が、イワンに何を言っているのか、そんな事は知ったこっちゃなかった。離れないよう掴んだ手首は細く、死にかけの蛇を掴んでいるようで気持ちが悪い。
「覚えてますよ」
忘れるわけがないじゃないですか。そう言って、名前は口の端を持ち上げた。