月のなぐさめ
「あれぇ、テルくんだ」
間の抜けた声がして、心臓が跳ねる。流石に驚いて落ちる……なんて事はないけれど、それぐらい僕は動揺した。ドキッて音が鳴ったかもしれない。
「こんばんわぁ」
「……こんばんは、名前さん」
僕が答えると名前さんはへらりと笑う。何処と無く顔が赤く見えるのは、ベランダに転がるお酒の缶が原因なのだろう。ひい、ふう、みい……と今名前さんの右手にあるので4つ。僕は彼女がお酒に強いのか弱いのか知らないし、そのお酒にどれぐらいアルコールが含まれてるのは知らないけれど、4つも飲んだらほろ酔いぐらいはするらしい。珍しい事もあるもんだ。
彼女が隣に越してきたのは今年の春前だった気がするけれど、こんなに気の緩んだ名前さんを見たのは初めてな気がする。窓を全開にして、もうすぐ日付が変わるのに着替えもしないで、メイクも落とさないでベランダでお酒を飲んでいる。僕がパトロールに行ってから帰ってきたのだとすると、もう1時間以上は経ってる筈だ。
なにかあったのだろうか……いや、それよりも、今の状況は非常にマズイ。
「ところでさあテルくん、そのカッコどーしたの?」
「えっ、あ、いやこれは……友達と仮想パーティーをした帰りで」
「かそうぱーちぃ?あはは、ハロウィンはまだ先だよぉ」
「で、ですよね!ちょっと気が早かったなって僕も思います」
かそうぱーちーねぇ、わたしもやったねぇと名前さんは笑ってお酒をまた飲んだ。酔っているからなのか、僕の格好や今しがた超能力を使っていた事はさして気にならなかったみたいだった。名前さんがビニール袋を漁る為に背を向けたので、僕は急いで自分の家のベランダに降りて、仮面を外した。……っていうか、まだ飲むの?と一瞬不安になったが、名前さんが取り出したのは焼き鳥のパックだった。
「テルくんも食べる?」
「あ、僕はいいですよ。名前さんが買ってきたものだし…」
「いいよ〜ぜんぜん。テルくんがおなか空いてなかったら別だけど」
遠慮はしたものの、正直パトロールの範囲を広げたおかげで空腹感があるのは確かだった。月の光に照らされたタレがやけに輝いて見える。僕は迷ったけれど結局「じゃあ、いただきます」と甘えてしまった。いくらお隣と言っても名前さんと僕のベランダはそれなりの距離があるので、今日だけ超能力で受け取った。名前さんは特に何も言わず、嬉しそうに笑って焼き鳥を頬張った。僕もそれに習って食べる。まだ仄かに熱を持っていた。
「おいしい?」
「美味しいです。ありがとうございます」
「よかったね〜えらいね〜」
一体何に良かったねで何に偉いのか全く分からなかったが、相手は泥酔しているので特に何も考えなかった。一昨日も名前さんの作ったクッキーを貰ってしまった手前申し訳なかったけれど、僕が『お裾分け』を受け取る時の名前さんの笑顔を見ると、何故かそんな気持ちが無くなってしまう。不思議だ。
プシュ
と、どこかのCMで聞くような気持ちの良い音がしたと思うと、名前さんの手元に全く違う銘柄の缶──もとい5本目のお酒が握られていた。……いや、いやいやいや、そこまでしたら明日に響くんじゃないか…?未成年には二日酔いの概念はとんと分からないけれど、世間一般的には良くないものだと思う。名前さんはしっかりした人だからその辺りは弁えてるのかもしれないけれど、その光景が見るからに異常な事であるのも分かる。
「あの、名前さん!」
「んー?なぁに?」
「お酒、沢山飲んでるみたいですけど、今日何か良いことでもあったんですか?」
「んー?あはは、いいことっていうかあ、やけざけしてるだけだよ〜」
やけざけ
……ヤケ酒?
「な、何かあったんですか」
「んー、ふふ、ふへへ、きいてよテルくん、あんねぇ、わたしねぇ、ウワキされてた」
「………は、」
しかも三股!と名前さんは一際大きな声で言うと、僕に3本指を立てて見せた。
初耳だった。
名前さんに彼氏がいる事も、しかも三股されていた事も。ヤケ酒というのは、詰まる所そういう事で、そのクソ野郎は名前さんのほかに2人の女性と会っていたという事だ。
「ま〜じで三股とはやばくない!?はじめてみたってかんじでさぁ、さいしょユカからきいたときわらっちゃった!んでぇそいつよびだしてきいたらあっさりみとめやがってさぁ、もぉしねってわたしそいつぶんなぐってきてやった!ざまぁ〜!」
よく見ると名前さんの右手の甲は赤くなっていた。慣れてない分、余計に衝撃が返って痛かっただろう。………なんかスゴい苛々してきたな。今この話を聞いてるのが影山くんと会う前の僕じゃなくてよかった。
「まじでやばくない?おまえのためにさぁ、かみのいろもかえて、りょうりもがんばってうまくなろうとしたのにさぁ、おもいってなんだよ!なにがおもいんだよくそ、にあわないふくきさせやがって、ぐす、かむおときったねーんだよばかごみくそやろう」
「名前さん、」
「テルくんはちゃあんとかのじょがつくってくれたごはんのかんそうとかいわなきゃだめだよぉ、まじで、かみがたとかなんとかかんとかさぁ」
「名前さん」
「ん〜なに、テルくんさっきもよんだでしょぉ、な「何かして欲しい事、ありますか」
ベランダから名前さんの目の前まで移動すると、名前さんは全く気づかなかったようでぽかんとした顔で僕を見返した。顔は涙と鼻水でグズグズになっていたが、僕の姿が映る瞳は水を反射してキラキラと輝いていた。不謹慎だけど、なんだか綺麗だった。呂律が回っているか不安になる程名前さんは酔っていたが、僕の発言に余程驚いたのか急に目の前に来たからか、幾分冷静になって数歩退いた。そして缶を床に置いて両腕で顔をゴシゴシと拭いた。ちょっとは酔いが覚めただろうか。
「僕、何でもします。なにか食べたい物あったら言ってください。ご飯でも、お菓子でも」
「……んじゃあ、テルくん」
「はい」
「頭、撫でさせて」
今度は僕が呆然とする番だった。てっきり焼肉とか、お寿司とかケーキとかだろうと思っていたから聞き間違いかと自分の耳を疑ったものの、僕は「はい」と反射的に答えてしまった。だが名前さんが手招いているのでどうやら本当らしい。撫でられるなんて久し振りだからどうすればいいのか分からなかったけれど、取り敢えず名前さんが後退した分だけ近づいて、座って、頭を下げてみる。すると頭を手の平が滑る感覚がして、自分のものではない暖かさとくすぐったさがじわじわ侵食してきた。撫でられるってこんな感覚だったんだ。忘れてた。
「きもちいい」
「そ、そうですか?」
「テルくんさぁ、最近髪短くしたじゃん。満月みたいで触ったら気持ち良さそうだなぁってずっと思ってたんだよねぇ」
「そ、そうだったんですか…」
「うん、でも流石に頭撫でられるのは嫌がるかなってエンリョしてたんだけど、ラッキーだねぇ」
誰に言っているのか分からない名前さんは左手も僕の頭に伸ばして、両手で髪を撫で始めた。撫でるというより、揉まれてる感じだ。悪い気分ではない。恥ずかしさは全く変わらないけど、気がすむまで撫でて下さいと言おうとしたら、名前さんは不意に「テルくんは偉いねぇ」と間延びした声で言った。
「僕ですか」
「うん、テルくんは偉い。中学生で一人暮らしして、勉強も頑張ってて、料理も洗濯も掃除もできるって、普通じゃできないよ」
「いや、僕はそんな」
「凄いねぇ、テルくん」
慰めてるこっちが慰められてる気がする。いや待て、今僕が泣きそうになっちゃ駄目だろ。#名前さんは度々僕を褒めるからこういうのは慣れていたつもりだったけれど、頭を撫でられている相乗効果でいつもより涙腺が弱くなっている気がする。まずいまずい、どうにかしないとと焦った僕は咄嗟に顔をあげて、行きどころのない右手を名前さんの頭の上に乗せた。我ながら何をしてるんだと思ったけど、名前さんは何を言うでもするでもなく石像のように固まったので、僕はゆっくり名前さんの頭を撫でた。
「て、てるくん」
「偉いです」
「え、」
「名前さんは偉いです。そんなクソ野郎の為に料理も頑張って身嗜みも整えて、好みに釣り合おうと頑張ってて凄いです」
手の動きとリンクするように、名前さんの固まった顔が少しずつ解れていく。顔が紅潮して、瞳にまた涙が溜まっていく。綺麗だ。
「殴るのも一発だけで凄いです。本当はもっと殴ってもよかったのに……僕なら半殺しにしてたのに」
「……っく、ふふ、テルくん物騒だねぇ」
「元々物騒ですよ、僕」
名前さんは泣きながら笑う。けれどさっき見たような自暴自棄なそれじゃなくなっていた。もう大丈夫かなと思い、名前さんの頭から手を離そうとしたけど、「もうちょっと撫でて」と名前さんが小さな声で言ったので僕はどこか高揚する気持ちを隠して、気がすむまで撫でますよと答えた。
遠くで日付が変わる音がした。