欲ぼうは純粋です
あれから数えて10回ほどだろうか。何回か間を空けてリッパーが相手のゲームを行なったが、順調に勝ち続けておよそ1週間が経った。幾度か危ないところはあったものの、ハッチに逃げたり、他サバイバーと助け助けられを繰り返して、リッパーの"要求"を呑まずにいれていた。
(いれていた、な…)
今回までは……。朦朧とする意識の中で、ソフィアは溜息を吐く。
胃からせり上がってきた鉄臭い血は息すらも赤く染め上げているようだった。腹部に深く刺さった刃物の先に実体はなく、海の濁った色と、鈍重の雲が見えた。どくどくと流れる血と痛みはまだソフィアの意識を保つ助けをしていたが、それももうすぐ終わるだろう。失血死かロケットチェアかは目の前の透明な影次第だが、どちらにせよこの状況を打開し得ないソフィアにはどうすることも出来なかった。
ズ、ズ、と引っ張られる感覚がして、ソフィアの肉を貫いていた刃物が引き上げられる。
透明が段々とカタチを持つ。飾り気のない仮面が上機嫌な口笛をうたい、血に濡れた刃物を眺めた。塞ぐものがなくなったソフィアの肉から益々血が溢れ、プラチナブロンドの三つ編みは薄黒い赤に染まっていた。
「ーーさて、今度は何をしましょうか。やっともぎ取った勝利なのですから、豪華なディナーでもどうです?」
「…………す、きに、しろ…」
答えるのに精一杯で随分と掠れた声になってしまったが、リッパーは満足そうに頷いてソフィアを抱える。所謂お姫様抱っこというべきだが、かたや血塗れの女に血塗れの仮面紳士という絵面は、ロマンチックな雰囲気を醸し出すには無理があった。地獄絵図である。思いの外ロケットチェアは近くにあったようで、リッパーは殊更優しくソフィアを座らせた。残り1人の名前#をチェアは待ってはくれず、リッパーの拘束が終わるとすぐに導火線に火が灯り、あっという間に火薬に到達する。
ではお待ちしていますよ、と言うリッパーには答える事もできず、ソフィアは無理矢理内臓に押しかかってくる浮遊感に耐えた。
1週間前のエマの発言から、ソフィアは何となく感じる違和感を募らせていた。
エマ・ウッズは無邪気な少女だ。ソフィアが出会った一癖も二癖もあるサバイバーの中で浮いてしまうほど、普通で優しい、何処にでもいそうな、ソフィアが庇護欲を感じてしまうようなか弱い女の子。(何処にでもいないから此処にいるのだろうが……)
彼女はめったに嘘を吐かない。とソフィアは思っている。あれは『嘘をついてはいけない』と教えるような家庭環境の中育った人種で、正直が美徳だと額面通り受け入れているような少女だ。"要求"が口に出せないほど惨いモノだったなら話は別だが、あの純粋な表情から見るにそういう類ではないと思われた。
となると、リッパーはーーあの殺人鬼はソフィアだけをあの部屋に招いているのだろうかと考えてしまう。勿論別の結論はあるだろう。口止めされたとか、エマが意味を履き違えているとか、『初期化』した為その記憶がないから等、少し考えれば別の可能性はいくらか思いつく。
だが、ソフィアはなんとなく、リッパーが自分だけに"要求"をしているという結論が一番可能があると思ってしまっていた。
こんな事を他のサバイバーに知られたら、きっと自意識過剰だと笑われるだろうし、この狂ったゲームのやり過ぎで頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だが、『自分にだけに何かをする』というその行動がどんな意味を持つか分からない程、ソフィアは鈍感に歳をとってきた訳でもない。容易にその意味を汲み取る事ができるし、(大変遺憾だが)そう想像してしまう。ソフィアの整った容姿に引き寄せられた紳士たちと同じ空気を感じた。無論ソフィアに空気を感じるなどといった故国の武芸者あたりが言いそうな事は出来っこないのだが……。
(出来ればそうでないといいが…)
面倒くさいから、とソフィアは今日何度目か分からない溜息を吐いて、いつのまにか目の前にある扉を開いた。相変わらず歩いてきた道のりも、頭に霞がかかったようにぼんやりとしか思い出せなかった。じきに完全に忘れてしまうだろう。
扉を開けると、以前アフタヌーンティーに使った丸テーブルではなく、晩餐会に使われるような、真っ白のクロスが敷かれた縦長のテーブルが置かれていた。奥の上座に座っているリッパーが「ようこそ」と低い声を弾ませ、ジェスチャーでソフィアに座るよう指示する。ソフィアがリッパーと向かい合わせになる位置に座ると、いつのまにか目の前に前菜が置かれていた。まるで子どもの頃読んだ絵本に出てくる魔法さながらだな、とソフィアは最早諦め顔を浮かべる。
「フランス料理はお嫌いでしたか?」
「ああ…いや、嫌いではないし、寧ろ好きな方だよ。皿が意外な出方をすると思っただけだ」
「今更ですね」
「今更だな」
果たして慣れていいものか、とソフィアは今更な疑問を頭の中に浮かべてオードブルを一口食べる。後の世でメシマズ国家などと謳われる事など全く知らないソフィアでも、育った我が故郷より美味しいと感じてしまった。サンマが刺さったパイよりもずっと。
「口に合いましたか」
「ああ、美味しいよ」
「それはよかった。誘ったは良いものの、貴女の味の好みが分からなかったもので」
気が気でなかったのです、と言うリッパーも、ソフィアと同じモノを食べる。口では軽く言っていたものの、どうやら本気でそう思っているらしい。ソフィアは「まあ、味の好みなんてゲームには意味がないだろうしな」と適当な返事をした。
「ただ、味の好み如何よりも、洋食ばかりで飽きがくるのは避けられないな」
「偶には中華や、トルコの料理でも、という事ですか?」
「あとは和食………日本の食事も食べたくなる」
「ニホン…?それはまたどうして」
「私の生まれた土地だから、かな」
そうソフィアが言うと、リッパーは驚いたのか手を止める。
ソフィアのファミリーネーム、つまりは姓ーーはウラミチ。漢字表記は有楽道と呼び、正真正銘日本の家名である。鎖国を開いたと言ってもまだまだ日本の知識がマルコ・ポーロの話す通りに想像している者も少なくない。加えてソフィアのプラチナブロンドの髪とグレーの瞳からはそう考えつけと言う方が無理だろう。ソフィアも、家名こそ日本のものとはいえ、育ったのはほぼイギリスだ。日本に帰ったのも数えるほどしかない為、胸を張って日ノ本に生きる人間だとはとても言えない。
「イギリスでは見ない食べ物ばかりだから、偶に食べたくなるんだ」
「それはそれは、私も生前は目にした事もありませんから、興味はありますね」
「(生前…?)気にいるかどうかは分からないが」
「ああいえ、貴女の故郷の味に興味があるだけなので、気にいるかどうかは如何でもいい事ですよ」
「……ああ、そうか…」
そういう話をしたかったわけじゃないんだけどなあ、と思いながらソフィアはスープを飲む。
自分に探りを入れられるーーと言ったらあまりに浪漫がないが、実際リッパーはソフィアの事を知りたがる。わざわざ人を招いてこの場を設けるのも、つまりは会話を通してソフィアの事を知りたいと考えているからなのだろう。話す機会を欲しがっていたのだろう。荘園の主人に言えば、いくらでも私の個人情報を知ることは出来るだろうにーーとは思うが、それもまた浪漫がない、のかもしれない。
知りたがられるのも根掘り葉掘り聞かれるのも、別にソフィアは嫌いではない。
嫌いではない、というよりは、慣れたと言った方が正しい。そこに悪意や善意があろうがなかろうが、ソフィアにとっては些細な事だ、些細な事になった。だが、それが目の前の化け物に当てはまるのかと思えるかどうかは分からない。意図も目的も判然としないままデザートまでこの問答が続くのかと思うと、ソフィアは少し居心地が悪くなった。それならば少しでもこっちから質問でもしてやろうと、ソフィアはナフキンで口元を拭う。
「私から一つ聞いていいか?」
「ええ、どうぞ」
「……貴様は随分と私に興味があるらしいが、私は他と何か特別な違いを持った参加者ではない。それに、わざわざ敵対する貴様がこうして場を設ける意図が分からない」
「分からない?本当に?」
「………」
本当は薄々気づいているんじゃないのか、と暗にリッパーは言ったが、ソフィアは口を噤む。そう聞くからには、恐らくソフィアの考えていることは……懸念している事が当たっているのだろうが、どこかそれを認めたくない自分がいるのも確かだった。
それを察したのか、リッパーは仔羊のローストを切るナイフを止め、ソフィアを見る。彼の瞳なんてものはないが、確かに目が合ったような気がした。
「貴方に興味がある」
ドクン、とソフィアの心臓が跳ねた。
なんの変哲も無い、ただ興味があるというその言葉に、ソフィアの本能が危険信号を出す。胃の中に氷の塊でも突っ込まれたような気分だった。あるいは、足元にじゃれつく子猫が、全く違う恐ろしい怪物だった、かのような。その言葉には、きっと、幾重にもベールが被せられていて、それは絶対に暴いてはいけないものだーーソフィアは直感で理解した。
それでも疑問は拭えない。なぜ、なぜよりにもよって、この私にとソフィアが呟くと、リッパーが上機嫌に答えるーー「貴女が気に入ったからですよ」
「それすらも何故、と訊かれれば、私は恐らく明確な答えをーー貴女が納得する答えを出すことは出来ないでしょう。ただ惹かれた、としか」
「………」
「貴女の美しさか、勇ましさか、はたまた別の貴女に惹かれたのか、そんなものは最早如何でもいい。貴女を知りたい、貴女が欲しい。だからーー」
此処から逃がさない。
二対の空洞がソフィアの目と合う。空洞の向こうには何もない、ただの暗い影がぼうっと浮かんでいる。きっと仮面の奥でリッパーは笑っている。
此処から逃がさない、何があっても、何をしても。
それはなんの混じり気のない、まっさらな言葉で、彼がずっと抱いてきた渇望だ。嘘ではない、振りではない、リッパーは必ずソフィアを手に入れようとするだろう。逃げようとするなら、両足を切断してでも、傍に置かせるかもしれない。いや、きっとそうする。そこには私の意思なんて介在しない。恐らく彼ならそうするだろう。
どろりと、息がつまるような空気が漂う。剥き出しの歪んだ欲望を直にぶつけられるのは、こういう感覚なのかもしれない。この感情は嫌悪でも、恐怖でもない。だったら何なのだろう。宣戦布告を受けたような、決闘でも申し込まれたような……もしかして、別の感情であるのかもしれないが、それはソフィアにとって最早如何でも良いことだ。小刻みに震える手のひらをぐっと握りしめ、リッパーを見据えたままソフィアは口を開く。
「………貴様が私に何を求めようが、求めまいが私には如何でもいい事で、そこまでの興味は無い。"それ"らしい関係になりたいのか、そうでないのか……だが、私は必ずこの荘園から出るよ。たとえ貴様がどんなに阻もうと、賞金を獲得し、此処から出るという目的が揺らぐ事はない」
リッパーは答えず、部屋の中に静寂が満ちる。言いたい事は言ったが、もしかしてコースを全て食べないと返してくれないのだろうか、もしかしたらここでチェイスが始まってしまうのだろうか、とソフィアが内心焦り始めた時、リッパーがソフィアから視線を外し、口元を抑える仕草をした。僅かに肩が震え、くつくつと小さな声が漏れる。
……もしかして、笑っているのか?
「いや、失敬。貴女が………貴女ならそう言うかもしれないと思い描いていた台詞を、そっくりそのまま返されたので、可笑しくなってしまいまして」
「……そう言われると、撤回したくなってくるよ」
「いえ、いえ。いつも通りの貴女で良かった。『何に対しても』毅然な貴女だからこそ私は惹かれたのですから」
「だから、貴様に好かれた所で、私にとってはいい迷惑じゃあないか……」
溜息を吐いて、ソフィアは立ち上がる。もう出て行きたいという無言のサインに、リッパーは「おや、もうお帰りですか」と言いつつも、引き留める素ぶりを見せなかった。
「久し振りにフランス料理を食べたよ。有難う」
「ええ、ではまた、ゲームで」
「………そうだな」
彼に睡眠という概念があるかどうかは分からないが、ソフィアは「おやすみ」と言って部屋から出た。またいつもの様にふわふわと判然としない記憶が続き、気づけば自分の部屋の前に立っていた。静かにドアを開け自室に入ると、ソフィアはふらふらとベッドに転がった。ギシリと木の軋む音がする。スーツを脱いでさっさとシャワーを浴び、後は日記を書くだけなのだが、さっきまで起きていたあの異常な出来事を思い出すと、身体が動かなかった。疲れた。今まで見ていたものは夢幻で、彼の言葉も、歪んだ欲望も、自分の言葉も、口に残るソースの味も脳が勘違いを起こしている事にならないだろうかと、ソフィアは遠い目をして現実逃避を始めた。だがそれはまぎれもない現実だとソフィアが一番分かっている事で、これからどうすればいいんだとソフィアは重い溜息を吐いた。