タンザナイト


 いつから、と聞かれたらきっと答えられない。


 思い出せない、記憶がない。
 きっかけはいつだったのか。


 幸せな記憶があった。
 陽の光の下で暮らしていた。

 ただ、いつからああなってしまったのか。
 それだけは思い出せなかった。
 奴らの仕業なのか、自分のせいなのか。
 宝石と共に流れた記憶は、今も心を苛んでいる






「いつからだ?」


 自分を抱えながら山を颯爽と駆け下りる男の問いかけで、私はまたその不十分で不確かな記憶について無意味にも思考を巡らせることになった。彼の視線は鋭く、嘘を吐くことを許さないといった風で、私は思わず萎縮する。


 いつから、と聞かれて、私は答えられない。
 いつから施設にいたのか。
 いつから搾取されたのか。
 いつから1人だったのか。


「……ええっと……思い、出せないです」

 怒られるかもしれないと思うと自然と尻すぼみになった私の返答に、男は驚いたような、けどどこか分かっていたような、諦めた表情を見せた。いや、顔は包帯だらけで分かりにくいのだけど……。

「それは奴らがやったことなのか」
「それも……分からないです。すみません」
「ハァ………」

 男はため息をついた。会話の中でもしょっちゅう息を吐くから、もしかしたら癖なのかもしれない。ただ私に呆れっぱなしなだけなのかもしれないけど…。私は失礼ながらも、まるで犬みたいとは思ったけど、それはたとえ口が裂けても言えなかった。言ったらその鋭利な刃で口が裂かれそうだ。既に沈黙が充分、痛いけれど。

「……そ、そうだ」
「……?」
「あなたの……あなたの事を教えてくれませんか?」

 この重い沈黙を打破するために、私ははずっと聞きたかったことを聞くことにした。
 何しろ目の前の男の名前すら知らないのだから。捕まりそうになった私を突然助けてくれて、それから今までそのまま。私を見捨てるでもなく、売り飛ばすでもなく、守ってくれている初めての大人。たぶん、ヒーローなのだろうけれど、私はそこまで詳しくはない。テレビもスマホもラジオも何も与えられなかったのだから、昔のヒーローしか朧げにしか覚えていなかった。
 けれどこの人はヒーローではないって言っていた。それも気になる。ヒーロー以外でこんな事をする人を知らない。こんな命知らずなこと、するワケない。そこまで深く突っ込んだ質問をするつもりではないけれど、何となく、私は彼の事が知りたかった。

 彼がどんな人間なのか知りたかった。

 その理由は分からない。男は予想外の質問に驚きはしたものの、直ぐに冷たい表情に変えた。包帯の隙間から見える目の影は深くて、少し怖い。……これは、答えてくれないパターンなのだろうか。

「……断る。お前に教える義理もない」
「え、ええ…」

 やっぱり!薄々気づいてはいたけど、ここで会話が終わってしまったらずっと気まずいままだし、何より、ずっと彼の事を知るチャンスが無くなってしまうような気がした。何も聞くなオーラが凄いけど、私は意を決して食い下がる。

「知りたいんです!私を、助けてくれた人だし……私、あなたの事を何も知らないし…」
「知る意味もない」
「意味はあります!」
「……なんだ」
「えっと……私の……見聞が広がる、と、か…」

 私は一体何を言っているんだ!?言っちゃ悪いけど、見聞が広がる可能性を全然感じない!男も「何を言っているんだこいつは」みたいな表情をしている。失敗だ。どう切り返せば正解なのか分からないけれど、この返しは目に見えて失敗だった…いたたまれなくて私は俯く。視線が前よりいっそう痛い…。

「……ハァ、俺の事を知ったところでお前に利益があるとは思えん。」
「……」
「意味がないんだよ。俺のこれまでは」
「………意味が、ない?」

 そんな返事を貰うとは思わなかった。
 だって、彼はきっとヒーローなんだから。きっと誰もが羨ましいと思うような凄い才能に溢れてて、尊敬する人がいて、血の滲むような特訓をしたりして、友達を作って、切磋琢磨して、人を救ける為に頑張ってきたのだと思っていた。

「…そんな過去はない。今となっては、無価値で、無意味だ。何も知らずのうのうと生きていた自分が愚かしく、何よりもこの社会が悍ましい。……ハァ……俺の半生は全くの無駄だった。俺のしてきた事は、屑足と同じだ。俺の成りたかったモノは蛆のわいた腐肉同然だったのだ!幻想に惑わされ、この世界がとうに腐り果てたものだと気づかなかった。そんな俺の過去に、意味などない」

 男の言う事が、私は半分しか分からなかった。
 半分も分からなかった。彼はヒーローなのに、彼の成りたかったモノがなぜ無価値なのだろう。なぜ無意味なのだろう。……けれど、私は何も言わなかった。彼の言葉を否定できるほど私は彼を何も知らないし、世界を知らない。それに、その言葉からは怒りのような、失望のようなものがぐちゃぐちゃに混ざりあっているような気がして、とても私はそれを踏みにじるような真似は出来なかった。



 私を救けてくれた。



 そんな事をするような人が、無意味で、無価値なんて筈がないのに。貴方に意味がないのなら、この世界に意味がないのに。私を救けてくれなかった、この世界に意味はない、のに。

「……じゃあ、あなたは、何に意味があると思うんですか?」

 私がそう聞くと、彼は視線を森の向こうに向けたまま答えた。その狂おしいまでの使命感に駆られた、暗い暗い海の底のような瞳が何処を見ているのか、私には到底分からなかった。


「変えることだ」







 山を下って、車道を超えて、私達はやっとの事でビルの陰を捉えられる距離まで来た。ずっと山の中にいた私にとって、路地裏の隙間から見えるそのビルでさえ見覚えのないものだった。淡い月の光に照らされる建物も、道路も、看板も。私だけが世界から置いていかれたみたいな感覚を覚えて、どすん、と胸の辺りに不安がのしかかってくる。
 私、これからどうなるんだろう。どうやって、生きていけばいいのだろう。そんな心の内で渦巻く不安が顔に出ていたのか、彼は走りながら、私の顔を覗き見た。

「……どうかしたか」
「い、いいえ、なんでもないです」

 何でもないわけないのだけれど、どうしても、彼に余計な心配をかけたくはなかった。短い間だったけど、凄く迷惑をかけたから。当然のことながらバレていて、彼は盛大なため息を吐いていたけど。

「大通りまでは運んで行くが…それからは自分で何とかしろ。交番の1つはあるだろう」
「わ、わかりました。……これで、お別れですね」

 『ありがとうございました』の代わりに、私の口はそう言った。…自分でも驚いている。まるで彼と別れたくないように聞こえるじゃないか。…彼の表情を見て、私はすぐに訂正しようとしたけれど、次の言葉が、ごめんなさいという言葉がどうしても、つっかえて出てこない。


 嫌だ。


 私の本心が、そう言っている気がした。
 この瞬間、あの数キロ先の大通りを過ぎるまでの間、この時間が終わってしまったら、私はもうこの人には会えないかもしれないという、変に確信めいた思いがあった。
 名前も知らない、それでも私を救けてくれたひと。今ここにいて、私の目ははっきりとその横顔を捉えているのに、何もなかったかのように消えてしまいそうな気がして。……それが、凄く、苦しくて。悔しくて。悲しくて。



「ーーーあの!」



 私の声が路地裏に反響する。
 せめて、名前だけでも。
 あなたの何もかもを知れなくてもいい。
 あなたの名前、それだけでも知ることができたら、私はずっとあなたの事を思い出せる。
 靄がかかった私の記憶。
 忘却された私の思い出。
 価値のないモノ。
 その中に、ただ、あなたという人が居たことを。
 他の誰でもない、あなたが救けてくれたことを、残したいーーー!



「私、貴方のーーーー」



 その声は、続かなかった。


 男は、彼は、足を不自然に止めて、目を大きく見開いて、まるで身体を操っている糸が切れたように、力なく路に倒れこんだ。抱えられていた私も同じように冷たいコンクリートの上に乱暴に倒される。
 だけど、落ちた時のその痛みは最早感じなかった。


 呼吸がーーできない。


 ついさっきまで普通にできていたのに。
 極端に、酸素が、薄くなっている。
 は、は、は、と苦しそうに顔を歪める彼を見ていて、私は1人、この状況の原因に思い当たっていた。だってこれは、私が日常的に受けてきた仕打ちだ。


 これは"個性"


 あの男の"個性"



 私を、地獄に突き落とした、あの男のーーー!




「やっと見つけたよ!今回は、随分長く逃げたねえ。そんな大物ゲストを誑かしてまで、さ」


 建物の陰から何人ものシルエットが浮かび上がる。
 山に続く路地の向こう──どこまでも続きそうなその向こうから、靴の音を上機嫌に鳴らして歩いてくる男がいた。
 真っ赤なスーツ。
 真っ赤な髪。
 私を痛めつける時に必ず浮かべる、この世で最も醜い笑顔を浮かべて、その男は、私を搾取していた組織のボスはや悠然とってきた。
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