アンダルサイト
何故あの時そうしたのか、きっと理由を聞かれても私は答えられないだろう。
ただ、直感的にそう感じただけだ。
今、この時、ここを出なければ、きっと一生縛り付けられると。
搾取されて終わってしまうと、頭の中で誰かの声が響いた。
いや、誰でもない。
あれは私自身の声だ。
私がそう思った。確信した。
目から零れ落ちたダイヤモンドの光が、そう訴えるように輝いていた。絶望の象徴だった宝石は、今は希望のように煌めいている。暗闇の中、私を導く篝火のように思えた。
私はそれを手に取って──ただひたすらに鎖に打ち付けた。
スフェラとエマ
神奈川県、沙川市。
広大な森林がコンクリートの間に平然と鎮座し、一都六県の内の1つであり、所謂都会と呼ばれる中にありながら、どこか地方の田舎を彷彿とさせる……そんな紹介を受ける町だ。近々大規模なショッピングモールが建設され、それに伴い周辺の再開発が進められる予定だが、予定地の周辺を除けば一般的な住宅街、そのさらに外れにポツポツと別荘があるぐらいだ。
そんな平々凡々な町の中に、『ヒーロー殺し』と恐れられている希代の殺人鬼、ステインはそこにいた。
もっとも、ステインは『偽物』の粛清の為にこの町に潜んでいるわけではない。ここでの使命は3ヶ月前に済んでおり、ステインにとって、此処はもう終わった地である。
なら何故ここにいるのか。
それはこの沙川市には、もうステインがいる事はないと、大衆が思っているからであった。
こればかりは彼のスタンスが良い方向に働いて、『ここで何人かのヒーローが犠牲になれば、もう殺人鬼は訪れない』と、ヒーローの訃報を嘆く誰も彼もが心の底で思っていた。警察さえもその考えが頭の中をよぎるだろう。次はここかもしれないと警戒を強めている街よりも、もう脅威は過ぎ去ったと安堵している街の方が潜みやすい。彼の経験則である。
そういう理由で、ステインは街外れの森にある小さな廃小屋で身体を休めていた。田舎で、真っ昼間で、しかも森の中だ。ここに寄り付く市民はそう居ないだろう。物音も殆どしない、ただひび割れた窓から差し込む陽光だけがある。同じ場所に留まる事を良しとしないステインだが、静かなここはそれなりに気に入っていた。
だが、今日は違った。
森のざわめきや風の音と共に──ヒトの足音が聞こえた。
それも、1人や2人ではなく、数人の。
(……なんだ?)
子ども?平日の昼なのだから普通なら学校にいる時間だ。それより下の年齢ならもう保育施設だろう。そもそもこんな森の奥だ、こんな所に入り込む奴は、子どもというより……。ステインは僅かな衣擦れの音も立てずに身体を起こし、遠くから僅かに聞こえる足音に耳を欹てて腰に仕込んであるナイフに手を伸ばす。
……注意深く聞くとその足音は、まるで、何かを追いかけているようだった。 乱暴に踏み荒らされる草の音が、段々と近くなっていくのが分かった。
誰かが追われている。
ひとつの足音を、幾つもの音が追いかけている──ステインにはそう捉えた。
だが──それが分かると、ステインは警戒をわずかに解いて、また古くなった壁にもたれかかった。
自分を探しに来たのではない。
ステインにとってはそれだけ分かれば、後はどうでもよかった。
この静寂を乱す音の羅列はどこか裏の組織のゴタゴタかもしれないし、可能性は低いがただの子ども達の鬼ごっこかもしれない。安易に首を突っ込むのは危険だし、この類は、自業自得というパターンが多い。
自分の居場所が悟られなければいい。
使命を果たせぬままに面倒事に巻き込まれるのは御免だ。
だが、何故か、ステインの耳はその音を、無意識に拾っていた。
無意識に、注意深く、熱心に。
音が、近くなる。
草の鳴き声と、風の悲鳴に混じり、足音ではない、音が──『声』が、響いた。
「ッ………助けて……!」
「誰か、助けてッ!!」
女性の──いや、もっと幼い、少女の声だった。
息が荒く、弱々しく、涙でぐちゃぐちゃになったその悲鳴は、叫びは、声は。
ステインの耳にまっすぐ届いた。
そして──彼は錆び付いた刀を抜いて、ナイフを手に取り、小屋を飛び出していた。
少女を追っていた人間は8人。全員銃器を手にしていた。だが、背後からの奇襲に対応出来るほど戦闘慣れはしていない、見せかけだけの下っ端ばかりだった。ステインはその集団を捉えると音もなく駆け、一番後ろにいた小太りの男の頸動脈を手慣れた手つきで切り、それに気づいた長身の男の目をナイフで潰してその血を舐め取り、横にいた痩せた男の手を刺して銃を奪うとその男と地に倒れた男の頭を撃ち抜き、痩せた男を向かい合うように立っていた褐色の男が撃つ銃弾の盾にしながら突進して、刀で頭蓋を刺し砕き、頭に角が生えた男の銃撃をかわしてナイフをその男の肩に投げ、怯んだ所をもう一本のナイフで心臓を容赦無く穿ち、その男の腰に装着されたホルスターから二丁の拳銃を取り出して、残り2人の頭を撃ち抜いた。
何もかもの音が死に伏した中で、ステインは男達全員の死を確認すると、へたり込んでこちらを呆然する少女を見やった。
15歳……あるいはもっと下に見える。それにしてはボロ雑巾のようなワンピースから見える少女の手足は木の枝ほどに細く、まるで月の光だけを頼りに生活していたような肌の色をしていた。腰まである髪はぼさぼさで、薄汚い灰色をしている。
ただ──その少女の瞳は、その瞳だけは鮮やかな薄い虹色で、涙に濡れたそれはステインが過去に見たどの宝石よりもいのちに溢れ、美しく輝いている。
だが、ステインが釘付けになったのは彼女の捨て子のような貧弱な身なりでも、宝玉の如き瞳でもない。
少女の足元に転がる小粒の石ーーいや、宝石。
彼女の頬に流れた涙が固まり、薄い硝子状の膜になるその瞬間が、ステインの視線を頑なに捉えて離さなかった。
少女は呆然としていたが、やがてほんの少ししかない、もう枯れてしまった勇気をあらん限りの力で振り絞って、凶器を手にして、包帯だらけの顔を赤い返り血に染めた男に言った。
「助けて──どうか、助けて下さい、ヒーロー。」
少女の目から涙が零れる。
それは頬を伝い、落ちる。
それは一瞬にして固まり、輝きを放つ石へと変貌し、ことんと草を潰して落ちた。