もう“最初”は忘れてしまった。
でも私は幼い時から、みんなが『普通』に見えないモノが、
『普通』に見えていた。
アナザー・ループ・ワールド(02)
ど、どうしよう。
「っ…、」
奈緒子ちゃんの肩に黒く小さな靄(もや)が見える。
「? どーしたのりんちゃん」
「ううん、何でも、ない」
いや、何でもなくない。
嫌な感じがする。これは確実に奈緒子ちゃんにとって悪いモノだ。
「奈緒子ちゃん、ちょっとトイレ行きたいから先に理科室に行ってて、くれる?」
「? うん、わかった」
じゃあまた後でね、といって奈緒子ちゃんは笑顔で理科室に向かった。
「…どう、しよう」
物陰に隠れ、そっと奈緒子ちゃんの後ろ姿を盗み見る。
「…、」
やっぱり見間違いでも何でもなく"それ"は小さいながらも悪い障気を放ちながら奈緒子ちゃんに纏わり付いていた。
…とりあえず魔切りでなんとかなるだろう。
私は辺りに誰も居ないのを確認し、奈緒子ちゃんの後ろ姿をしっかり目で捕らえてから、右手の人差し指と中指の二本を立てて、他の指をすべて折り、刀剣の形にした。その刀剣の形のままで、自分の額のところに移動させ、目をつむり意識を指先に集中させる。
「(久しぶりだから緊張する…)」
しっかりと集中してから、カッと目をあけ黒い靄を視界に捕らえ口を開く。
「…八剣(やつるぎ)や、波奈(はな)の刃の、この剣、向かう悪魔を薙ぎ払うなり」
神歌を念唱し、刀剣に見立てた指を振り下ろし言葉の順に縦、横と空を切っていく。
「天・地・玄・妙・行・神・変・通・力・勝」
そして言い終わった瞬間空を切っていた指を奈緒子ちゃんに憑いている黒い靄に向かいと大きく振り上げた。
その瞬間バチッと小さな光と音を出し黒い靄はすぅっと空気に溶けるように消えていった。
「(よ、よかった…、って!!)」
私は靄が消えた事にほっと安心したのもつかの間、さっきの魔切りの様子を見られていなかったかまた辺りを素早く確認した。
「(よかった、見られてなかった…)」
誰にも見られていなかった事と、黒い靄を消す事ができた事に改めてほっと胸を撫で下ろし、奈緒子ちゃんの背中をパタパタと急いで追いかけた。
まさかそれを柳君が向かいの校舎から見てるなんて、思いもしないで。
――私は幼い時から周りの人が見えないモノが普通に見えていた。
それは幽霊とかではなく、世間一般で『妖怪』、といわれる類(たぐい)のもので。
妖怪が見えるこの力は遺伝らしく、私の祖母は強い力を持っており九州で表向きは小さな神社を営み、裏稼業として憑き物を払ったりする仕事など、簡単にいうと妖怪退治――いや、祓い屋を生業(なりわい)としている。そして、祖母の強い力を受け継いで生まれた七歳上の兄も今、祖母の居る九州の神社で、同じ仕事を生業にしている。
祖母が言うには、妖怪が見える強い力を持つ私のような人間は(勿論祖母や兄には到底及ばないが)、どうやら妖怪には魅力的なご馳走らしく、たまに命を狙われたりする事も時たまある。
その命を狙ってくる妖怪から自分の身を守る為の対処法として、先ほどの魔切りなど、簡単な呪術などを祖母から教わっていた。
でも昨今、妖怪というものは現代社会において科学などでその現象は証明されたりして、その存在はただの幾何学現象、昔の人が生み出した妄想の産物とされている部分が多い。妖怪退治や呪術もまた然別。
だから妖怪から身を守る為でも呪文などを唱えようものなら「あの子何ぶつぶつ言ってんの?おかしいんじゃないの?」と変人扱いされるのがオチなのである。
なのでどんな事があっても呪術を使ってる場面は見られてはいけないし、突然妖怪にあっても大袈裟に驚愕したり迂闊に喋ってはいけない。周りから見れば、誰もないのにぶつぶつ何かを呟いていたり、喋っていたりするように見えるのだから。
だから、絶対にバレてはいけないのである。
そう、絶対に
「…………え?」
バレてはいけない、
はず、
…だったのに。
「お前は今日山田に向かって何かをしていただろう?あれは何をしていたんだ?」
放課後、相も変わらず利用者の少ない図書室の貸出カウンターに座る私に柳君は来た途端そう口を開いた。
「どう、したの?急に…」
冷や汗が背中を流れる。
身体が強張る。
心臓がバクバクと痛いくらい強く鳴る。
「急にこんな質問をしてすまない。たまたま向かいの校舎から木ノ下と山田が見えてな、少し気になったんだ」
「そ、そう…、なんだ」
そんな、まさか…!
あの時の事が見られていたなんて…!
どうしよう、どうしよう!
「やな、ぎくんの見間違えじゃ、ないかな…私は別に何にもしてない、よ…?」
声が、震える。
柳君と、目を合わせられない。
柳君は「確かに手を動かしながら何かを言っていたように見えたが…。そうか、見間違いか…」と言いながらもその視線はしっかり私を見ているのが痛いくらいわかる。
お願い、もうそれ以上何も言わないで、何も聞かないで、
(お願い…!)
強く願ながらも柳君の口がゆっくり動くのが空気でわかった。
今度は何を言うつもりなの、
お願いだから、やめて……!
『ねぇねぇ知ってる? りんちゃんたまに変な事言ってるんだよ』
『あたしも見た事ある!この前誰もいないのに喋ってたりしてるの見たよ』
『何かりんちゃんて怖いよね』
『うん、なんか怖いよね』
自然と思い出したくない過去の記憶がフラッシュバックする。
いやだ、
もうやめて、
ふいに脳裏に霞めた昔の記憶。
それを振り払うように俯き、目をつむり、震える手でスカートの裾をぎゅっと握った。
「木ノ下、お前は」
やめて…!!
「蓮二」
「!」
――願いが、通じたのかと思った。
柳君が私に何か言いかけたとき、第三者の、凛と落ち着いた声がそれをさえぎった。
それに思わず俯いていた顔をあげた。
そこにいたのは、すらっと伸びた身体に、雪のように白い肌、
男の人かと疑うくらいの美しい容姿。
彼は確か、
「精市」
そうだ、
私達と同じ学年で、学校に知らない人は居ないといわれる、
幸村精市、
その人だった。
「ごめん、話し中だった?もう部活の時間だから蓮二を呼びにきたんだ」
「……わかった、今行く」
もうそんな時間だったか、と呟いて柳君は幸村君に向かってそう言うと再び私に向き直り、
「…木ノ下、今日一緒に帰れないか?少し話がしたい」
突然こちらに顔を寄せてきた彼にドキッと心臓が跳ねた。
「っえ、あ、うん、大丈夫…」
「よかった、では委員会の仕事が終わったらテニスコートの前で待っていてくれないか?」
「は、い…」
私が頷くと柳君は綺麗に微笑んで幸村君と一緒に図書室を後にした。出ていく際、幸村君と一瞬目が合った気がしたがそんな事はもうどうでもよかった。
「〜〜〜っ、あぁぁあ、私のばか…!!」
なぜなら、どうして一緒に帰る約束をしてしまったのかと、後悔に頭を抱える私がそこにいたからである。
もう後の祭り、とはこの事。
動揺と勢いって怖い…。
――――玄関までの道のりを立海で有名な二人が歩く。女子からの熱い視線にももう慣れたものだ。
「蓮二が特定の女の子と一緒にいるなんて珍しい事もあるもんだね」
「俺だって女子と話す事だってある」
「ふふ、そうだね。でもあの子はちょっと…特別そうだね」
「……、」
幸村の言葉に口元を緩ませ普段より楽しそうに笑う友人。
珍しいと、思った。
「そう…、かもしれないな」
予想出来たような、出来なかったよな答えに幸村は一瞬小さく驚いたが、またすぐにいつもの美しい笑みをその顔に浮かべたのだった。
――――ザア、
木々が妖しく風に揺れる。
―――もう“最初”は忘れてしまった。
でも私は幼い時から、みんなが『普通』に見えないモノが、『普通』に見えていた。
そして脳裏に浮かぶのは、消してしまいたい、不器用な、
昔の私――。