俺はこんなにも欲望にまみれた人間だったのだろうか。 弾丸とキスマーク 昼休み、彼女が日直でいつもの屋上での予定がなくなった俺は、一人テニス部の部室にいた。 梅雨特有の湿気を避ける為、部室に備え付けられているエアコンは除湿設定にして稼動させている。 俺はリモコンを机に置くとそのままソファーに身体を沈めた。 だらりと力なく座り、背もたれに頭を預け上を向いて目をつむった。 「(千秋が、好きだ)」 静かな部室で思うのは彼女しかなかった。 「(好きだ)」 資料室で、キスをした。 「(好きだ)」 アイツが初めて、自分から俺に触れた。そっと、優しくこの頬に触れたのだ。 「(あの時の感覚が、まだ残っている)」 甘えるように、俺に擦り寄ってきたのだ。小さく、微笑んでいた。 まるで、 「(そう、まるで、)」 ――彼女に愛されているかのような錯覚さえ、してしまって。 愛しいと、そう言ってくれてるような幻聴さえ、聞こえてきそうで。 「(都合の良すぎる自分勝手な考えなのだというくらい、わかっている)」 「(分かっているのに、)」 彼女が愛しくて 仕方ないんだ。 好きで、好きで、仕方ないんだ。 「あ、やっぱりここにいたんだ」 「……ああ」 突然ガチャリと部室のドアが開いて、その声で誰かがすぐにわかった為特に顔を向ける事もなく、そのままの態勢で答えた。 きっと本人もさして気にしてはいないのだろう。その証拠に精市は鼻唄まじりに向かいのパイプ椅子に座ると机の上に無造作に置いてあった部誌をペラペラとめくり始めた。 「…………暇なのか」 「そ。最近昼休みはいっつも美村さんで遊んでたから急に予定なくなったから何していいかわかんなくなっちゃって」 「……あまり虐めてやるな」 そう言うと精市は笑った。どこに笑うところがある。 「そういえばさっき美村さんからマネージャーやるってメール着たよ。蓮二が説得したの?最初は迷ってた感じだったから返事もらえるのはちょっと後だと思ってたんだけど」 顔を直接見なくともにっこりと精市が笑うのがわかった。 きっと全てを分かっている上で敢えて聞く精市のそれにコイツの意地の悪さを窺えた。 「今日の放課後は先生から頼まれ事されてるらしいから、明日からマネージャー頼もうかと思うんだけど。いい?」 「…ああ」 「(明日の放課後から、ずっと傍に、)」 目の届く範囲に、彼女がいる。 そう思うと俺の中に妙な嬉しさが込み上げてきた。 「(千秋、)」 やはり俺の脳裏に浮かぶのは彼女だけで。 数時間前に会ったばかりなのに、 触れ合ったばかりなのに、 もう既に、彼女に会いたいと、思っている。 彼女を深く、欲している。 「……思った以上に、執着しているね」 精市が静かに呟いた。 エアコンの音だけが響く部室の中、パラパラと部誌をめくる音がした。 「…執着、か。そうだな…。自分でも、そう思う」 俺は投げ出していた片腕を顔に置き、目を隠した。 目をつむっても明るかった世界が、真っ暗になった。 「…精市」 「ん?」 「千秋が、あの日の事を覚えていた」 「え?」 部誌をめくる音がピタリと止まった。 「正確には、あの日の事は覚えていたが、俺の事までは覚えていなかった」 「…そう」 「だが、嬉しかった」 本当に、嬉しかったんだ。 初めてこの学校で彼女に再会した時、彼女は俺の事など覚えてはいなかった。 仕方のない事だ。覚悟くらいしていた。あれから何年も経っているんだ。 けれど、俺の事までは覚えていなくとも、"あの日"の事を覚えてくれていた事が、嬉しかった。 俺一人だけの"記憶"ではなかった事が、酷く、嬉しかったのだ。 「(千秋、)」 愛しくて、恋しくて、 何よりも彼女が大事で。 彼女の柔らかい身体をこの手で抱き寄せて、 髪を撫でて、 首筋に唇を這わせ、 彼女の目を見つめて、 存在を確かめるようにして頬に手を這わせてから、 そして、 そして、唇に―――― ――こうして何度こんな想像をして、 何度彼女の名前を呼んだのだろう。 俺はもう何度、 「(千秋、)」 ――俺はもう何度、夢の中で彼女を抱いたのだろうか。 もう、わからない。 欲望にまみれた自分自身に、乾いた笑いがもれた。 何度も願った。彼女が欲しいと。 神など信じない筈のこの俺が、神に縋ってまで、欲しいと願った。 彼女が欲しい。どうしても。 彼女の心も、身体も、全部。全部が欲しい。 どうすれば、いい。 どうすれば、それは叶う。 もし神がいるなら、教えてくれ。 (――どうすれば、彼女は俺のものになる?) 答えなんか、一度も返ってきた事はなかった。 「…千秋に、好きだと言った」 返事はまだ、貰っていない。 「早く答えが聞きたい」 聞くのが怖い。 「好きだと言ってほしい」 嫌われたくない。 「傍にいてほしい」 離れていかないで。 「笑って欲しい」 泣かせたくない。 「俺を見てほしい」 目をそらさないで。 「触りたい」 拒絶しないで。 「抱きしめたい」 突き放さないで。 「それから…」 それから、 「欲しい、」 彼女の、心が。 どうしても、 君を失いたくない。 君を失うという事を少しでも想像すると怖くて怖くて、仕方なくなる。 自分でも処理しきれない恐怖が襲ってくる。 精市がふふっと笑った。 「……こんなにも欲望にまみれたお前は初めて見るよ」 「…同感だな。俺もこんな自分は初めてだ」 俺は顔から腕を外し、ゆっくり目を開けると顔を前に向け、思わず笑った。 ――だが、思うんだ。 「…千秋に出会ってなければ、こんな欲望にまみれた事は一切思わなかっただろうな」 「蓮二、」 「きっと、こんな感情は一生知らないまま、生きていただろう」 嬉しいと思う感情も、 苦しいと思う感情も、 指先が彼女に少し触れるだけで心が震える事も、 出会えただけで、嬉しさで泣きそうになるという事も、 笑いかけてくれただけで思わず抱きしめたくなる衝動も、 嫉妬も、焦燥感も、この醜い欲望さえも、 彼女に出会わなければ俺はきっと何も知らなかった。 知る事は、なかった。 「だから俺は人から醜いと思われるようなこのどうしようもない欲望も、嫌いじゃない」 こんな風に思う事も、きっとなかった。 「精市、俺は」 今改めて感じるんだ。 彼女に出会わなければ、きっと、 「――こんな幸福など、知りはしかった」 知る事は、なかった。 だから、 「(千秋、)」 君が、愛しいんだ。 愛しいんだ。 神に願うは、目が眩むほどの明日と幸福 (全部、君のこと) |